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2025年6月1日 復活節第7主日礼拝説教要旨「ここにはいない」

  • masuda4422020
  • 13 時間前
  • 読了時間: 2分

ルカによる福音書24章44~53節

ペンテコステは、言語や民族の違いを超えてキリスト教が広まっていったという出来事ですが、イエスが生きた時代のイスラエルはローマに支配されており、誰が仲間で同じ民族なのかということは大きな問題でした。「民族・国民(ネーション)」の問題が大きくあったのです。現代に生きる私たちは急速なグローバル化の中にあって、社会の変化を身近に感じるようになりました。私たちは「民族・国民(ネーション)というカテゴリーで人びとを分け隔てていく仕組み(小山哲ほか『中学生から知りたいパレスチナのこと』2025年、p.124)」に大きな影響を受けています。

ルカによる福音書と使徒言行録は同じ人が書いたとされていますが、ルカによる福音書はイエスの誕生から十字架での死と復活、使徒言行録は復活の後に教会ができていく様子が書かれています。今回の聖書箇所はイエスの昇天が書かれていますが、イエスの誕生から教会の広がりという歴史の中では中間にあたる箇所と言えます。ここでは「天に上げられた(50節)」イエスが、神の右にいるということが語られますが、これは初期キリスト教会の中で大切にされていた考えのようで、そのようにしてイエスはこの世を支配していると考えられています。そしてイエスから始まった赦し/救いはエルサレムから始まり全世界中に広まるのです。

救いの始まりとされるエルサレムですが、今日にあっては近くのパレスチナでの戦争を忘れることはできません。この対立はユダヤ教とイスラームの対立というようにも見え、これらの宗教は日本に住んでいるとあまりなじみもないので、遠い場所の出来事として他人事としてでしか見ることができない状況があります。他人事のように考えてしまうことがありますが、同じ境遇にいたならば、同じ人間として行動も変わっていたのだろう考えさせられます。本当は民族やさまざまな主義で人間が区別されるのではないのです。また評論家の埴谷雄高さんは「敵は制度、見方はすべての人間(同上、p.122)」ということを記しておられますが「民族・国民(ネーション)というカテゴリーで人びとを分け隔てていく仕組み(同上、p.124)」を制度と考えると、私たちは民族ばかりに気をとられ、人間をみれなくなっているのではないかとも思います。死刑制度で命を落としたイエスは復活し、ペンテコステを通してすべての民族への宣教が告げられました。私たちも、「制度」ではない新たな出会いに招かれているのです。

 
 
 

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