2025年5月18日 復活節第5主日礼拝説教要旨「神が行う業」
- masuda4422020
- 13 時間前
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ヨハネによる福音書14章1~11節
以前、釜ヶ崎にあるシェルターと呼ばれる施設を見学しました。シェルターとは臨時夜間緊急避難所とよばれるもので、野宿を余儀なくされる人々の寝る場所を用意するということを大阪市からの付託事業として行われています。多い時で1,000人が1日で利用していたそうですが、今でも200人ほどの利用が1日であるのだそうです。釜ヶ崎では野宿する人が減ったと言われていますが、実際にシェルターを利用する人たちが多くいる様子を見て衝撃を受けました。根本的な課題は解決していないのです。野宿者が減った理由の一つに、ネットカフェの存在などもあります。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。(2節)」ということが語られていますが、昔から住む場所ということは大きな問題で、住む場所がなくなるということが昔からあったと思います。誰もが安心して生きるためにどうすればよいのかということが、この聖書からは投げかけられているのではないかと思います。また住む場所が多くあるということは、誰をも排除しないという神の姿勢があらわれていると読み解くことができます。そして次には、「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。(7節)」ということが語られていますが、これは現代的に言えば三位一体でイエスと神は同じであるということになりますが、イエスと通ずるとき、天上にある神の国の姿が、この地上でも行われようともするのです。
野宿者は時にそこに住んでいても市民とは認められず、余所者として扱われるときがあります。「ホームレスのせいで市民は危険に晒されている」という意見はそのような状況のゆえに出されるものです。このような意識の中で野宿という社会問題は「『余所者』の貧困として構築される(堅田香緒里『生きるためのフェミニズム パンとバラの反資本主義』2021年、p.84)」ということが言えます。我々の問題として、この地上で、神の家のように住処(居場所)がたくさんあり排除のない姿を目指すものでありたいと思うのです。
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