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2025年5月25日 復活節第6主日礼拝説教要旨「イエスの祈り」

  • masuda4422020
  • 13 時間前
  • 読了時間: 2分

マタイによる福音書6章1~15節

先日行われた教区総会では、上程された議案がすべて可決されましたが、法定議案の他に可決された大きなものとして教区互助に関連した新たな教区負担金の算定基準が2026年度から行われるということが可決されました。なぜこのような議案が出されたのかというと、支えあうということが教区として寄り集まる中では生命線であるという理解をしたからです。私たちの尼崎教会は会衆派の教会であり、「各個教会主義」という考え方をしましが、これは裏を返すと孤立しやすいということでもあります。そうではなく、近隣の教会との関係性に開かれて、助け合いながらこの困難な時代を生き抜いていくということが、この議案で語られていることだと理解しています。教会では神と人との関係性を見つめることがあります。しかしこの関係性は、人と人・教会と教会の関係性にも模倣されていくべきものなのではないでしょうか。

イエスは律法学者などがするように、人前で祈ってはいけないと語りました。これは他者からの評価を気にする偽善ということです。そうではなくイエスが薦めたのは、閉じこもった場所で孤独に祈るということでした。そのような場所で祈っていると、願いが神に聞かれているか不安になる気もします。孤独に見える祈りは「空虚な独り言」ではないということが「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(8節)」という言葉で保障されています。神とは人間の目には見えない場所にいて、私たちは近づくことはできません。しかし、イエスは人間の姿として神としてこの地上を生きたということは、人間の苦しみへの神の共感性があらわにされたということです。

信仰を持ってみるならば、疑うことよりも信じることの方が大切かもしれません。しかし、やはり疑ってしまうのが人間のような気もします。イギリスの詩人であるジョン・キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念を作りました。「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念は、結論に至ろうとする気持ちを留保することで「不確かさや疑いの中にいられる能力(小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』2021年、p.18)」のことを示しています。人間はどうしても様々な論理や簡単な言い方をして納得しよう、分かろうとする方向性が備わっています。しかし、その方向性に抗い、想像力を持つことが「他者との共感に至る道筋」となるのです。疑いを安易に無くすのではなく、長い時間をかけたその先に希望があることを信じたいと思います。

 
 
 

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