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2025年5月11日 復活節第4主日礼拝説教要旨「復活のイエス」

  • masuda4422020
  • 13 時間前
  • 読了時間: 2分

ヨハネによる福音書11章17~27節

新しいローマ教皇を決めるコンクラーベが行われましたが、これは秘密に行われる選挙です。キリスト教が経済的に安定し始めた時代にあっては、教皇が政治的に利用されたり干渉されるということがあり、現在のような形になったそうです。教会は世俗的な世の中からは切り離されているように見えて、じつは「抑圧的な国家/資本主義の重要な一環として機能(マニュエル・ヤン『バビロンの路上で―律法に抗う散歩者の夢想』2024年、p.169)」という側面もあるということを思わされます。

イエスと仲の良かったラザロは突然に死んでしまいます。姉妹のマリアとマルタは悲しみに暮れ、多くの人が慰めるために訪れました。そこにイエスは弔いのために家に行くのではなく、生き返らせるために墓へと向かいます。イエスが来たことを知ったマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。(21節)」と語ります。そしてイエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(25節)」と語り、ラザロは生き返りました。ラザロが生き返るこの物語は、イエスの奇跡的な力が表現されている箇所ですが、今日的な状況でどのように解釈することができるでしょうか。この物語はイエスの十字架とも重なっています。イエスは政治的な理由で、殺されなくてもよいのに命を奪われました。ラザロも死ぬような病気ではなく、「イエスさえいれば」死なずにすんだのかもしれません。現代では、簡単な「薬さえあれば」助かる命が格差の中で多く亡くされていきます。格差を維持するシステムが依然としてあります。

社会のシステムの中で殺されたイエスを目撃した人々は、イエスが今も共に生きていることを確信し、「権力の暴力による死が最後の勝利を得ることはなかった。神はイエスを死の中から新しい生命に起こしてくださり、イエスの生き様が正しかったことを立証してくださったと確信(山口里子『新しい聖書の学び』2019年、p.140)」したのです。この世の中で、死ななくていい命が亡くされることを神は見過ごさないということです。ラザロも簡単な病気やイエスさえ(薬さえ)いてくれれば死なずに済みました。私たちはこの社会のいびつさの中で、命が亡くされることを知っています。社会の在り方を「贖う『復活』」を読み解くものでありたいと思います。

 
 
 

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