マタイによる福音書 14章22~33節 桝田翔希牧師
礼拝当日は3月2日ですが、翌日の3月3日と言えば多くの人が「ひな祭り」を連想する日ではないでしょうか。しかしこの日にはもう一つ歴史的に大きな意味がある日で、1922年に全国水平社創立大会が行われた日です。大会で採択された水平社宣言は日本で最初の人権宣言と言われますが、宣言の中にはキリスト教のモチーフが用いられています。「殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。」ということが書かれています。これは職業のゆえに差別された人々を殉教者と表現し、その悲しみがイエスが罪なく十字架につけられて殺されていったこと、しかしその出来事は神によって復活として栄光の場所へと変えられたということを読み解くことができます。私たちは聖書の物語を実際の生活の中でどのようなリアリティーを持って解釈することができているでしょうか。
イエスが湖の上を歩くという箇所は、イエスが神として大いなる力を持っていたということを感じる箇所かと思います。しかし、マタイによる福音書の編集上の意図を考えると、モーセになぞらえてイエスを説明しているということがここにも当てはまります。マタイは湖の上を歩くイエスにもモーセを重ねています。恐らく、葦の海を切り開いたモーセと、湖の上を歩くイエスが重ねられています。分かりにくいですが、他にも旧約を下敷きにしていると考えられる文言があり、27節の「恐れることはない」や「わたしだ(エゴ―・エイミー)」がそれにあたります。「恐れることはない」などの言葉は旧約において神の顕現を表す表現で、「わたしだ(エゴ―・エイミー)」という言葉は、モーセの前に燃える柴として現れた神の言葉と重なります。湖の上を歩くイエスに編集者はモーセを思い出しており、「エクソダス(出エジプト)のイメージに結び付けて、イエスをモーセより偉大な人として編集(山口里子『マルコ福音書をジックリと読む―そして拓かれる未来の道へ』2023年、p.141)」されているということです。出エジプトの物語から解放のビジョンを語るということはよくされてきたことでした。ラテン・アメリカの神学、北アメリカの黒人神学、「アパルトヘイトという厳しい差別のもとにある南アフリカにある神学なども、(…中略…)出エジプトの物語によって白人の人種差別主義と植民地主義からの解放のヴィジョンを語ってき(栗原輝夫「荊冠の神学」1991年、p.75)」ました。湖の上を歩くイエスは、「恐れることはない」と私たちを解放の向こう岸へといざなっているのです。
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