マタイによる福音書 5章17~20節 桝田翔希牧師
2月11日は【信教の“自由”を守る日】として守っています。「自由」ということについて、キリスト教の中のプロテスタント、そして更にその中の組合教会(会衆派)と呼ばれるグループでは「自由」という言葉がキーワードの一つとされてきました。この「自由」とは何を指しているかというと、英国国教会から分離した時のことを思うと「教会は国家の強制からは自由である」という意識を読み解くことができます。一方で日本に宣教師たちによって持ち込まれた会衆派は、武士による支配者層が統治を行うという専制政治が一応は終わろうとする時代にあって、支配から自由になることであり、その自由は好き勝手にするということではなく、自治があり独立し自立するということが大切にされました。
マタイによる福音書では、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(17節)」という宣言がされています。「①イエスは安息日など律法を破るような行動をしたことが福音書に書かれている」、ということと「②そもそも私たちが旧約聖書にある律法(ルール)をほとんど守っていない」ということから、読んでいて違和感を持つ箇所ではないでしょうか。このような記述には「ユダヤ人キリスト教徒の名残」があると考えられ、マタイに主張としては、イエスによって贖いが行われたけれども、律法から自由になったということは自由の範疇を超えている、ということが言えるかもしれません。
自由ということに関連して、ブラジルの教育学者であるフレイレは『被抑圧者の教育学』という著書の中で、被抑圧者が抑圧からどのようにすれば解放されるのかということを、自由という言葉も用いながら説明しています。フレイレは抑圧からの自由ということについて、抑圧という構造は抑圧される人が「モノ化」されるということを指摘しています。「人間の歴史的使命は“よりよき人間になる、より全き人間になる”ということ(パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』2018年)」であり、その中で単なる行動主義ではなく、自由になるために世の中を再解釈しなくてはいけないのです。イエスの律法批判は、支配的なスローガンを打ち壊し大枠の決まり事だけを守るということから自由になり、個々の出会いに開かれた律法解釈がイエスの理解であったのではないでしょうか。
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