マタイによる福音書 3章7~12節 桝田翔希牧師
日本基督教団は英語で表記すると「The United Church of Christ in Japan」となります。この「ユナイテッド」という単語は「結ばれた、連合した」という意味の言葉ですが、ここには、誰によって結ばれたのか、いつ結ばれているのかということを考えることができます。教団の合同は「くすしき摂理のもとに御霊みたまのたもう一致によって」とも表現されますが、一方では国家の圧力に逆らうことができなかったという側面もあります。また「結ばれる」という出来事は、過去の一時点だけのものではなく、ありようについては現在も問われているようにも思います。そして教会そのものも、私たちは望んでいるのかということを確かめ続ける共同体ではないでしょうか。
イエスの先駆けとして描かれる洗礼者ヨハネは、自身の洗礼活動にファリサイ派やサドカイ派が来た時、厳しく批判をします。「悔い改め」という言葉も用いられていますが、この用語はファリサイ派も用いていたと言われます。「主体の転換」となる本当の意味での悔い改めをヨハネは望んでいるのです。人間が主体でされるものではなく、神の業である悔い改めとも考えられます。また、アブラハムの子孫であるという自負があるということも指摘されています。そのような思い込みが蝮の子と批判されているのです。
私たちは自分たちこそが、ファリサイ派でも蝮の子でもないと信じて生きていますし、そうありたいと望みます。しかし洗礼者ヨハネのこの言葉は、自分たちこそファリサイ派ではなくヨハネやイエスの側に立っていると信じる私たちの思いを打ち砕き、新たに歩みだそうとすることを促しているのではないかと思うのです。教会は神によって集められる場所であり、人間の思いを超えた導きを知ろうとする場所ではないでしょうか。集められたという過去の時点だけに立つのではなく、集められ続けているという未来への志向が求められているのです。
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