マタイによる福音書 21章12~16節 桝田翔希牧師
この1週間、フジテレビの記者会見などがあり大変なことになっていますが、テレビや放送ということに関係して、私たちが普段扱うことのないような大きなお金が動いているということを感じました。また近年では、個人が動画を配信できるようになり、動画サイトの人気によって、テレビの在り方も変わりだしているこの時期にあって、転換点となるような事件だったと思います。日本社会には豊かで便利な生活がありますが、どことなく破滅の雰囲気が漂っているようにも思います。
イエスが宮清めをするという物語は、4つの福音書で記録された印象的な物語です。マタイによる福音書ではエルサレム入場と宮清めが同じ日であるとしているので、非常に重要な「時」として描かれていると解釈できます。両替人や鳩売りは神殿にやってきた人たちが、神殿で使うことができるユダヤ通貨に両替したり、ささげものの鳩を買うために必要な商売でした。宮清めは「宗教的な施設で商売をしてはいけない」と読み解くこともできます。しかしここでのイエスの宮清めの原因はさらに深いものがあるようにも思います。日本の神社などでお祭りがあると、出店がありますが、お祭り価格という言葉があるように、よく考えると高い値段設定がされています。しかし、私たちはそんなもんだと受け入れていると思います。神殿の両替や鳩の値段も、恐らく普通よりは高かったのではないかと思いますし、出展料のようなものを神殿に払っていたとすれば、神殿の運営に際し大きな収入源であり、神殿当局からすれば宮清めは看過できない行為であったことでしょう。
ローマカトリックは免罪符を発行したことがありましたが、1515年に発行されたものは、イタリアの聖ピエトロ大聖堂の建設費を集めるという名目のものでした。これを批判したのがルターであり、宗教改革の大きな起点となりました。この時の免罪符は、現在でも有効とされているそうですが、この時ルターが批判したことの一つは免罪符を買えば救われるということは、行いによって人が救われるということであり、その考えは間違っていると指摘したのでした。救いは人間の条件ではなく神の恵みによって与えられるということが、ルターの指摘でした。大きくなった神殿は、金儲けの中で自己を栄光化するような姿へと変わっていました。そうではなく信仰や神によってのみ恵みがあるということ、ルターが指摘したように信仰によってのみ救いがあるのです。
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