ルカによる福音書 14章25~35節 桝田翔希牧師
教会では「主」という言葉が多用されますが、これは神やイエス、聖霊に対して用いられています。聖書の中では「奴隷と主人」という構図と「人と神」が例えて説明されることが多く、そのような言い回しに違和感を持つ人はあまりいないと思います。しかし、このような言い回しの背景には、ローマ帝国に支配されていた時代にあって、ローマ皇帝が神格化され「主」と呼ばれることに反抗し、アンチテーゼとして神を「主」と呼んだということも言われます。社会の中でアンチテーゼを突きつけるということは、教会の大切な業の一つではないかと思います。
今回の聖書箇所では、まず弟子の条件ということが書かれ家族を捨てるというようなことが書かれています。日常生活に即したことが書かれているのでしょうか。続いて、塔を立てる時や、戦争をするときはよく計画するようにということが書かれています。塔は個人で立てるというよりかは、労働者を監視したり侵略者を監視したりするもので、戦争は一個人ではなく国や集落など個人より大きな単位の話のように思われます。多くの庶民が納得できるようなたとえ話と、権力者しか納得できない話が並記されています。イエスの後を追った群衆は、家族を捨てる葛藤をすることに共感できる人か、塔や戦争の準備に共感できる人、どちらだったのでしょうか。恐らく、塔の建設や戦争の準備に共感できる人は少なかったと思います。
塔は遠くから来る侵略者を監視する建築物で、現代で言えばレーダーのようなものです。戦争の準備には欠かせないものです。しかし、近所にレーダーが作られても地図アプリが高精度になるなど、庶民には判断の付かないことばかり説明がされます。そんなこと言われても、戦争の準備ではないのか、社会のやり方に何を言うことができるでしょうか。イエスのたとえ話には、そんなアンチテーゼがあったのではないでしょうか。私たちは教会からどのようなアンチテーゼを塩味のように突きつけることができるでしょうか。
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