ルカによる福音書 12章35~48節 桝田翔希牧師
8月、夏休みシーズンとなり街中では昼間にウロウロしている子どもをよく見かけるようになりました。熱中症とか大丈夫かなと心配ですが、たくさん遊んですくすくと成長していただきたいと願っています。子どもが遊び、成長する姿を見ていてうれしくなる反面、不安も抱きます。この子どもたちがこれから歩む人生や社会はどのようなものであるのか、学歴社会・いじめ、社会に出ても差別や搾取・格差、様々な困難にこの子どもたちは出会うのではないかと思います。平和を願いながら、私たちは差別や格差のない社会を想像することができるでしょうか。多くの問題に直面して、無力感ばかりを持たされてしまいます。しかし、私たちは次の世代のために、平和な世の中、少しでも生きやすい世の中をつくる、想像するということが必要なのではないかと思うのです。私たちはひとり一人が未来に対し無責任な存在ではないと思うのです。第二次世界大戦の終戦から78年がたち、多くの人が平和を願いながら、沖縄(琉球弧)を中心に軍事基地が続々とつくられ、戦争の準備がされています。未来について、私たちには何の責任もないのでしょうか。
ルカによる福音書12章35~48節では4つのたとえ話が含まれている箇所で、「①主人の帰りを待つ僕のたとえ」、「②盗人に警戒する主人のたとえ」、「③忠実な家来とそうでない家来のたとえ」、「④鞭に打たれる者のたとえ」となっています。それぞれがルカによる福音書の著者の思想のものとで、終末や再臨ということに関連して物語が書かれています。キリスト教思想の特徴的なものの一つに終末思想というものがあります。世界に終わりが来るということを、迫害の中にあった初期キリスト教会では広く信じられていたことのようです。しかし、次第にそんなにすぐに終末が来るということではなさそうだということになったようで、現代ではあまり使われない単語のようにも思います。私たちは「終末」を具体的に想像し、準備することができているでしょうか。
「②盗人に警戒する主人のたとえ」に関連して、自分の家を泥棒から守るというモチーフを聖書の中から探すと、自分だけが助かればよいというものではなく、聖書の中ではだれかとの連帯ということを意識し想定しているたとえ話であるということが言えます。自分だけが得するのではない、誰かと共に喜ぶことができる終末があるのです。私たちは終末を想像できるでしょうか。また、もっと身近な平和な世の中を想像できるでしょうか。今すぐにきそうもないので、投げ出して考えることをやめたくなります。しかし、私たちは未来に無責任であってはならないのです。誰かと共に喜ぶことができる未来を、なんとしてでもあきらめずに想像し続けたいと思うのです。
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