ルカによる福音書 10章17~24節 桝田翔希牧師
学生時代にワークキャンプでネパールを訪れた時、神学が一応の専門だった私は設計や医療の知識もなく、言葉の壁を前に無力感を味わったことがありました。合間の観光の時間にチベット医学の病院を訪ねたことがあるのですが、チベット医学のお医者さんは脈を取る脈診で症状を診断していて驚いたことがあります。特別な測定器や機材はなく、指だけで患者の症状を見極めるという技に驚きました。無力感を味わった私には、そのようにして誰かの助けになるというのは、とても輝いて見えたものでした。神学を学んだ私は、世の中のどのようなところで役に立てているのだろうか、と思います。
ルカによる福音書は、十二弟子以外の弟子がイエスによって派遣されたということを記録しています。ここでは、聖書の中で象徴的と言える数字である「72人」が派遣されています。この人たちは、喜びながら派遣から帰り「悪霊さえもわたしたちに屈服します(17節)」と報告しました。しかしこれを聞いたイエスは水を差すように「喜んではならない(20節)」と語るのです。ここでは「喜ぶ」という言葉が多用されています。72人の弟子たちはイエスに授けられた権威によって成し得た「成果」に喜びます。一方でイエスが喜ぶ理由は、聖霊に満たされたという「原因」についてでした。原因よりも成果が重要視されることが多いですが、イエスは聖霊という原因にこそ注目せよと語るのです。72人の弟子たちは私たちが憧れるような、奇跡的な癒しを成し得たのでしょうか。弟子たちは癒しの権能を授けられますが、私たちには奇跡的な癒しの力は受け継がれていません。また、私たちは必ずしも奇跡を見たから信仰を得た、というわけではないと思います。72人の成し遂げたことというのは、この物語がルカによる福音書にしか記録されていないことを考えると、大事件というよりか、案外誰でもできることだったのかもしれません。それでも最後はイエスも喜びに満たされたのです。
現代に生きる私たちはキリスト者として、どのような権威を使徒たちから受け継いでいるのでしょうか。公民権運動の指導者のひとりであるキング牧師は、39歳で暗殺される前日にメンフィスのチャールズ・メイソン監督記念教会で「私は山頂に登ってきた」という演説をしました。この中で「キリスト者全体」に当てはまることではないかと思うことが語られています。「牧師はイエスと共に『主の御霊が私に宿っている。主は私が貧しい人々の問題に立ち向かえるよう、聖油を注いでくださったからである』と言わねばならない。(梶原寿『私には夢がある M・L・キング説教・講演集』2003年、p.236、原文より歓声や脚注は省略)」。私たちは神さまの特別な御用のために、三位一体である聖霊によって、まさに力を授けられているのです。その力はこの世の中にあって、だれでもできることではあるけれど、聖霊によって新たに意味づけがされる、この世の現実に立ち向かう力であり、勇気であり、「回りに不正を見かける時にはいつでも語らなければいけない(同上、p.236)」力なのです。
Comentários