ルカによる福音書 24章13~35節 桝田翔希牧師
人間の言語の特徴として「目には見えないことを信じる」ことを表現できるということがあるのだそうです。人類が自然界には存在しないものを像として作り、信仰の対象としてきた形跡は3万年前からあるのだそうです。キリスト教でも目には見えないものを大切にしてきました。
本日の聖書箇所はエマオでの道で復活のイエスが現れるという箇所です。ここにいた弟子はイエスを見ても、イエスとわからないという不思議な体験をしました。見ているのに分からなかったのです。この弟子は12弟子ではなく、広義の弟子グループに属していた人たちでした。この二人の弟子について、聖書はその後を詳しく記しておらず、名前も片方の人しかわかりません。キリスト教の歴史を見る時、有名な伝道者や神学者が何人もいますが、歴史の中で忘れられた伝道者たちがたくさんいたということでしょう。この物語は「交錯配列法(キアスムス)」という手法で書かれており、中心となるキーワードの前後に関連付けられた用語が意図的に並べられています。ここで中心となる言葉は「イエスは生きておられる(23節)」となります。イエスが死んでしまって落胆していた二人は、イエスと出会い聖書の言葉を聞き心が燃やされたのでした。
イエスの召天後の時代を生きる私たちは、この弟子たちのように肉体を持つ復活のイエスと出会うということは恐らくないことでしょう。しかし、日常の場面で神の働きにこの二人と同じように出会っていることがあるのだと思います。何でもないエマオへの帰り道で、この二人はイエスに出会い気づくことができませんでした。しかし、旅の人を気遣い生活の一部として隣人愛を実践した人たちでありました。私たちは日々の生活の中で、余裕をなくし聖書を忘れる時も多くあります。しかし、弟子たちの物語を読みながら、イエスに出会っているという心持ちで、他者と出会うものでありたいと思います。
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