ルカによる福音書 11章14~26節 桝田翔希牧師
3月となり1年間の流れの速さを実感するころとなりましたが、年度末となりいろいろな会議が増えても来て億劫なところもあります。最近ふと感じたのは、会議でつかわれる言葉と、現場でつかわれる言葉は違うのではないかということです。言い換えると、会議でつかわれる言葉が、必ずしも現場で通用するわけではないということです。生活の場ではまかり通らないような議論でも、会議の時は通ってしまうということはよくあることだと思います。教会は会議性ということを重んじていて、様々なことを会議の中で決めていきます。一生懸命に議論して何とか活路が拓かれるということはよくあります。しかし、これでいいと思ったのに、しばらくしてやっぱり違ったということもよくあることです。
ルカによる福音書の「ベルゼブル問答」と呼ばれる箇所では、イエスによる癒しの後、イエスは悪霊の頭だという誹謗中傷がされています。そんなわけはないのですが、そんな非難にイエスは答えたのでした。このことを言ったのが誰であったか、聖書は記録していませんが、イエスと敵対していたファリサイ派や律法学者だったのでしょうか。そう考えますと、この人たちは言葉を選ぶことなくイエスを非難していました。しかし、この誹謗中傷をしたのは「一般」の民衆だったとも考えられます。そう考えると、私たちの中にも他者を心無い批判の的にしてしまうことがあるのだということを気付かされます。
イエスに癒されたこの人はどれほどの喜びだったでしょうか。病は悪霊によって起こるとされ、場合によってはひどい差別をされる時代でした。しかし、この人の喜びを分かち合おうという人はおらず、イエスを疑い暴論を投げかけます。生身の人間を前にしてイエスを非難するための「言葉遊び」に人々は陥ってしまったのです。私たちは日々の生活で、聖書を語るときどのような言葉を用いているでしょうか。会議の中であったり、教会の中だけで通じる言葉を使っていることがあるのではないかと思います。私たちが実感の中でつかう言葉をもって、聖書に向き合うことが大切なのではないでしょうか。
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