ルカによる福音書 2章28~38節 桝田翔希牧師
元旦を迎え、世間はお正月ムード一色となっています。「一年の計は元旦にあり」とよく言いますが、私たちはこれからの一年をどのように想像できるでしょうか。お正月というお祝いムードの中で考えれば、明るく楽しい一年を望むものですが、冷静に考えてみるとコロナの流行・円安・物価上昇・戦争、先行きを考えると暗い気分になります。この一年はどのような一年になるのでしょうか。
本日与えられた聖書箇所は、イエスが生まれた40日後に家族がエルサレム神殿を訪れ、献げものをしている場面です。「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」ということが書いてありますが、本来は小羊をささげるということになっていて、経済的に難しければ鳥でいいということになっていました。マリアたちがおかれた経済的な貧しさがあります。ここで赤子のイエスを見て声をかけてきたのが、シメオンという人でした。この人はイスラエルを救うメシアを待ち望んでいた人で、イエスをメシアと信じ讃歌をのべました。これを見てマリアは「驚いた(33節)」のでした。イエスの物語を知っている私たちが読むと、イエスに対して讃歌がのべられるのは不思議なことではありません。イエスの誕生について起こる数々の不思議な出来事も、違和感なく読むことができます。しかし、クリスマスにまつわる物語の中で、一貫してマリアは「戸惑い・疑い・不思議なことに思いを巡らし・心におさめ・驚いている」ということが書かれています。一人の人間として、様々な不思議な体験をしているのです。
私たちもまた、新年をむかえこれからの一年を思う時、「戸惑い・不安」を持つものです。神を信じることによってこれらの不安を忘れることができるかと言えばそういうわけにもいきません。マリアは神を信じ、不安や戸惑いを忘れることはありませんでした。しかし、それでも神を信じ、神殿へと進み出たのです。新島襄は「unseen hand(神の見えざる御手)」という言葉をよく用いました。体がそれほど丈夫ではなく、アメリカで勉強している時も体が悪くなる時がありました。しかし、それでも道が開かれ、日本に宣教師として帰国し大学を設立しました。体の弱さを抱えながらも、必ず神の導きがあると信じたからこそ「unseen hand」や「神のプロヴィデンス(摂理)」という言葉を使ったのではないかと思います。新しい年を迎え、私たちは多くの不安にかこまれ、閉塞感のある社会を生きています。信仰がこれらを忘れさせることはありません。しかし、私たちもマリアのように不安を抱えながら、信仰を持ち、神の見えざる導きがこの新しい一年にもあるということを信じたいと思うのです。
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