ルカによる福音書 5章1~11節 桝田翔希牧師
パソコンなどで使われる書体のことを「フォント」と呼び、様々なフォントがありますが、近年では「UDフォント」と呼ばれるものがよく使われるようになってきました。今までパソコンでよく使われてきたフォントに「MS明朝」や「游明朝」などがありましたが、最近パソコンを買うと最初からUDフォントがいくつかインストールされています。UDとはユニバーサルデザインの略で、文字を読みにくい人もそうでない人も使いやすいという意味のフォントです。フォントの説明を見ていますと、特徴として目の見えにくい人が「6」や「8」の違いを読み取りやすい、「ディスクレシア」と呼ばれる読み書きに限定した困難のある方も線の強弱が抑えられ読み取りやすいのだそうです。意識しないと私たちの生活でどのようなフォントが使われているのかということは、あまり意識しないものかもしれませんが、UDフォントは2006年ごろから商品説明などにも使われ始めています。多様性やダイバーシティという言葉がよく聞かれる昨今、「UDフォント」が使われるということは理解できることだと思います。私たちの生活は気付かないところで少しづつ変わっているのだと思います。しかし、フォントの説明の最後には、「UDフォント」を使ったからと言って読みやすいというわけではなく、全体として伝わりやすいように工夫しなくてはいけない、と注意がありました。気づかないうちに見やすいフォントが使われているだけで、私たちの意識はどれほど変わっているのでしょうか。
イエスは宣教をはじめ、多くの人々が神の言葉を求めてイエスの後を追いました。湖畔で人々に言葉を語ろうとした時、漁師のシモン・ペトロがイエスを船に乗せました。群衆への話が終わった後、イエスはシモン・ペトロに沖に漕ぎ出して網を投げるように言いました。この日夜通し漁をしても魚が捕れなかった、とありますが、漁師の経験に基づけばここで魚が捕れるということはあり得ないことでした。しかし、ここで奇跡が起こり一隻の船には積み切れないほどの魚が捕れました。そしてシモン・ペトロはすべてを捨ててイエスの弟子になる決意をしました。この箇所は「漁師を弟子にする」という見出しがありますので、奇跡によって漁師が弟子になるという大きな変化を伴う事柄に注目してしまいますが、奇跡を見てシモンがまずしたのは罪の告白でした。シモンにとってイエスは自らを映す鏡のような存在だったのです。
ある平和活動家は「歴史的に、人間は変化するか滅びるかという選択肢に直面した時に初めて、変化することを選ぶ人が多い。そうでなければ、変わることをなかなか選ばない。(アリソン・C・ハントリー『カナダ合同教会の挑戦 性の多様性の中で』2003年、p.103)」と語ったのだそうです。私たちは知らず知らずのうちに社会の変化の中を生きていますが、シモンのように変わることは難しく時に痛みを伴うものでもあります。シモンが変えられた場面を見るとき、信仰も同じように自己を映す鏡のようなものではないかと思うのです。聖書の御言葉は私たちの生活にどのように臨んでいるのでしょうか。
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