マルコによる福音書 14章1~8節 桝田翔希牧師
個人的に最近はテレビを見るより、youtubeを見ることの方が多くなりました。昔のドキュメンタリーがアップされていたり、好きな時に色々なものが見れて重宝しております。先日youtubeでドキュメンタリーを見ていて、2016年に神奈川県で起こった「相模原障害者施設殺傷事件」を改めて思い出しました。報道では加害者が「心が無い」と一方的に判断をしたということが言われていましたが、19人が次々に殺害されました。この事件が起こった時、多く聞かれた言葉は命に優越をつける「優勢思想」というものがありました。そのような考えは許されるものではないと思いますが、ネットでは加害者の考えに賛成する人も現れたということがありました。私たちがこの社会で生きていて根本的な意識が問われた事件だったのではないかと思います。
マルコによる福音書で14章という箇所は、13章から小黙示録と呼ばれそれまでとは趣が変わっており、奇跡が語られなくなり「受難」が中心主題となっています。そのような場面で、イエスの死を予見するようにある女性がイエスに油をかけるということが起こります。油をかけるということは、当時にあっては埋葬の準備としてされるものでした。しかし、高価な油を使ったことを指して、弟子たち300デナリオンで売って誰かに施した方がいいとは叱り始めました。5000人の給食の場面で、食事を用意するとすれば200デナリオンが必要と書かれていますので、マルコによる福音書の貨幣感覚としては7500人分の食事が用意できるほどの油だったということがわかります。弟子たちの指摘は決して間違ってはいませんし、私たちの感覚としてもそのような高価なものを一瞬で使うのは勇気がいることです。
しかしイエスは弟子たちに苦言を呈されました。ここには弟子たちが十字架での受難を理解できていなかったということだけではなく、弟子たちが一斉に他者を批判する姿もあるのではないでしょうか。相模原障害者施設殺傷事件を扱ったテレビ番組を見ている時、小児科医の熊谷晋一郎という先生が現代社会をだれもが自分がどれほど能力があるのか証明しようと躍起になっている、と説明していました。どのような人たちも共にいきようとするのではなく、まず自分の能力を証明しようとしていると説明していました。自分に能力があることを証明するために他人の能力のなさを見つける社会であるとも語っておられました。弟子たちにとって、女性のした瞬間は他者の間違いを見つけた瞬間だったのではないでしょうか。相手の出来ない部分を見つける、批判することで自分の能力を優位にすることに陥っているかもしれません。コロナ禍が続きわけのわからないような状況が続いていますが、イエスの言葉を私たちの生活として受け止めるものでありたいと思うのです。
Commentaires