マルコによる福音書 16章1~8節 桝田翔希牧師
今年は春の暖かな時にイースターを迎えることができ、喜ばしいひと時となりました。コロナの影響により、聖餐式をはじめこれまで通りのイースターを守ることはできませんが、冬から春に変わる暖かな季節です。しかし、ウクライナでは依然として激しい戦闘が起こっています。もし、私たちが今ウクライナに行ったとして、戦争で苦しみ悲しむ人たちとどのようにイースターの日を守ることが出来るでしょうか。死や殺戮がある場所で、自分に何か語る言葉があるのか、戦争を前に自分の無力さを痛感します。
マルコによる福音書は、今日読んでいただいた16章8節の部分で終わっていたということが言われます。4つの福音書ではそれぞれの書き方でイエスの復活が描かれていますが、多くの相違点があります。しかしただ死んだのではなく、「ローマ帝国の国家に逆らう者、社会秩序を乱す者、つまり政治犯の極刑と言える処刑法(山口里子『新しい聖書の学び』2011年、p.136)」である「十字架刑」でイエスが死んだということは共通している事項になっています。唐突に青悪マルコによる福音書は何を意図していたのでしょうか。福音書の中には弟子たちは男ばかりが書かれており、女性がイエスの後を従っていたという記述はほとんどありませんが、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ(1節)」はガリラヤからずっと一緒だったということが15章41節になってようやく語られます。弟子たちと同様にイエスの姿を見ていた人たちでした。この人たちこそが復活の知らせを目撃するわけですが、「だれにも何も言わなかった(8節)」と怪談話のような結末になっています。受難や復活に関して、現代では贖罪論をはじめ体系的な説明がされ、私たちも難なく受け入れることが出来ます。しかし、突き詰めればこの出来事は人間の言葉で説明しきれるものではないのです。詳しくは説明できないけれど、あの方は復活された、目撃した人もいたが詳しくは聞けなかった、私が書けるのはここまでか?そんな風にマルコは筆を置いたのかもしれません。
よくわからない部分もありますが、白い衣の若者は「イエスはガリラヤにおられる」と語ります。ガリラヤは、イエスがどんな人でもイキイキと生きることが出来る世界を語った場所です。ガリラヤは、政治的・宗教的中心地のエルサレムではありません。ガリラヤでのあの日々を思い出せ!そう語られているのではないでしょうか。そして、イエスは確かに殺されたけれど、「今も確かに私たちと共に生きている。権力の暴力による死が最後の勝利を得ることはなかった(山口里子、2011年、p.140)」ということなのです。戦いのある今日、イエスの復活の命は一言では表せない希望を示し続けているのではないでしょうか。
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