ルカによる福音書 2章41~52節 桝田翔希牧師
イエスが生まれた時のことを、私たちはクリスマスを通して繰り返し想起し、一年の中でも大きな行事であります。しかし、聖書を見ますとイエスの降誕物語はマタイとルカしか書き記しておらず、他の福音書では降誕物語ではなく「洗礼者ヨハネによるイエスの受洗」や「天地創造から続く神の業」に注目してイエスを語っています。ですので「イエスの公の生涯」に至る以前の物語というのは聖書の中にはあまり記されておらず、今回のように少年期のイエスについて記録しているのはルカによる福音書だけのことです。
当時、ユダヤ教の大きな祝祭日(過越祭・仮庵祭・五旬祭)の時にはエルサレムに行くということが言われていましたが、遠隔地から毎年三回もエルサレムに行くのは大変なので、生涯の内で1度行けば良いというようにも言われていたそうです。イエスの育ったガリラヤからエルサレムに向かうのも大変なことであったようで、徒歩だと1週間ほどかかったようです。しかしイエスの家族は過越祭になると毎年エルサレムを訪れていました。このエルサレム訪問は往復で2週間ほどの大旅行で、親せきなどと一緒に行動していたようですが、帰路についた二日目にマリアとヨセフはイエスがいないことに気づきます。聖霊によって身ごもったと言われるイエスですが、「血縁」という関係性で言えばヨセフとのつながりは薄いということになります。しかしヨセフも家族としてイエスを心配し、必死に探しました。ところがイエスは不安になっているどころか、神殿にいて聖書の話に明け暮れていました。マリアに見つけ出された時も「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。(49節)」と平然と語ります。イエスの生涯を知って私たちは聖書を読みますので、この言葉はもっともだと受け取ることができますが、マリアは違ったことでしょう。「キリスト=イエス」とすればマリアの心配は「間違い」ですが、子どもをやっと見つけたマリアの気持ちもよくわかります。
私たちは、「善・悪」という二つの考えに強く縛られているように思います。自らの正当性を主張したり、相手の間違いを指摘したり、何かが正しいという考えが広く社会にはあります。しかしどちらかだけが正しいということよりも、どちらも正しいという事柄もよくあるのではないでしょうか。アイヌ語で「ウコチャランケ」という言葉があるのだそうです。これは「お互いに(ウコ)言葉(チャ)下ろす(ランケ)」という意味の言葉で、争いごとが起こった時にされる話し合いのことをさします。「ウコチャランケ」はどちらが正しいということを決めるのではなく、双方が納得するまで時には数日かけて行われたのだそうです。どちらが正しいという基準ではないのです。イエスの少年期のマリアについて、福音書全体から見れば間違った姿であるともいえます。しかし、私たちはあまりにも「善・悪」という簡潔な考えに縛られているのではないかとも思います。聖書はイエスが数日も議論したように、簡単に善悪を判断できる基準ではないのです。
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