ルカによる福音書 23章35~43節 桝田翔希牧師
バザーを終え慌ただしさも少し落ち着いたような気分でしたが、次週にはアドヴェント第一主日を迎え、いよいよクリスマスまでの準備の期間を迎えようとしています。そして本日はアドヴェントを前に収穫感謝日を迎えました。11月も半ばを過ぎ、秋らしい季節となってきましたが、秋だから収穫感謝日があるというよりかは、アメリカなどで祝われる「サンクスギビングデー」に由来する行事です。アメリカ開拓時代にその土地にあった野菜の栽培に苦労することになるのですが、何とか収穫を得て命がつながったという出来事に由来する日です。現代では農業も体系化され、様々な技法が用いられます。スーパーには形のそろった野菜がならび、工業製品を見ているような気持にもなります。一様に作物が育てられていく様は、人間が自然を支配しているようでもあります。
イエスがゴルゴタの丘の上で十字架にかけられた時、その両脇には二人の罪人がいました。そしてその周りには、イエスを十字架につけろと騒ぎ立てる「群衆」、武力を持つ「ローマの兵卒」、宗教的・政治的権力を持つ「律法学者や祭司長」、武力も政治権力も最高のものを持つ「ローマ総督のピラト、ユダヤの王ヘロデ」がいました。ここにで群衆以外は国家権力に大きく関係する人たちが描かれています。辺境と呼ばれたガリラヤから始まったイエスの宣教は中心であるエルサレムに近づくにつれて、死の気配が強まっていきました。エルサレムの城壁周辺では迎え入れられたイエスが、エルサレムの中心で死刑判決を下されます。この経過は、死の気配が強くなると共に政治による支配も強くなっているのではないかと思います。そのような流れに翻弄される群衆の姿があります。しかしその只中で、イエスの傍らにいた死刑囚は流れに逆らうように、イエスを受け入れました。
1800年代のドイツの教育者であるフレーベルは、創設した幼稚園を「キンダーガルテン(子どもの庭)」と名付けました。「花が育ち、木が育つ庭というだけではなく、野菜、麦、果樹など、あらゆる食べ物が育つ場所(藤原辰史『戦争と農業』2020年)」という意味があるという説明がありました。一方で同時代を生きたビスマルクによる政策下では、教育は教師が生徒を厳しく押さえつけ、小さな子どもには体罰による「しつけ」が行われました。軍国主義に基づく教育は、学校が支配に都合のいい人間を生み出す工場のようになってしまいました。収穫感謝を迎え、秋の食べ物がスーパーに並び心躍る季節ですが、よく見ると形のそろったものばかりです。人間は、人間だけでなく自然をも支配しようとしているようです。「支配の思想」の中でイエスは十字架につけられつつ、ゴルゴタの丘の上ではその大きな流れとは少し違う出来事、激流の中の小さな渦巻きのような出来事がありました。私たちは現代の大きな流れの中で、十字架の物語をどのように読むことができるのでしょうか。
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