マタイによる福音書 5章1~12節 桝田翔希牧師
10月第3週は尼崎教会の創立記念を覚える礼拝です。尼崎教会は1896年10月17日に自給自足の教会となり、この日を創立記念日としています。今年で創立126年を迎えることができました。世間の企業で近い創立年を探してみますと、繊維メーカーのグンゼ株式会社は125周年だそうですが、これほどの年月にわたって教会があるということはすごいことだと思います。歴史を振り返りますと尼崎教会には前史と呼べるものもあり、1887年に行われた大説教会には千人もの人が集まったのだそうですが、これもすごいことだと思います。しかし、歴史を振り返る時、そこには栄光に輝くものばかりではありません。戦火によって会堂は全焼し、多くの会員が疎開によって尼崎を離れました。絶望的な状況というのがあったと思います。しかしともし火は消えることなく、私たちにまで尼崎教会の歴史というバトンは渡されています。私たちが生きるこの時は、数十年後に振り返った時、「栄光に輝くとき」を生きているのか、「絶望的なとき」を生きているのかどちらでしょうか。教団では2030年問題というものが言われており、この時を境にかなりの教会が消滅するという分析もされています。教団全体としては危機的な状況を私たちは生きていると言えると思います。
マタイによる福音書の「山上の説教」と呼ばれる箇所では、「幸い」という言葉が繰り返されます。この「幸い」という言葉は旧約聖書では、「神との交わりがもたらす幸い」という意味で使われており、「祝福/救いの喜び」とも解釈できる言葉で、「基本的にこれは祝福の言葉(田川建三『新約聖書 訳と註 第一巻』2008年、p.548)」でもあります。「心の貧しい人々(3節)」という言葉はどのように解釈することができるのでしょうか。3節に対応して5節は言い換えた表現と考えることができるのですが、ここでは「柔和」という言葉が使われています。「柔和」とは「『へり下った者』と訳す方がいい(田川建三、2008年、p.550)」ようで、昔のユダヤ教では「貧しい人」という表現と共に、神の民の特性と考えられていました。絶望的な状況にこそ祝福が「強く」示されるということが語られているのではないでしょうか。
「幸せ/祝福」はこの世的に見れば栄光に輝く場所より、絶望的な場所、辛さの時にこそあるということが大切なのではないかと思います。尼崎教会の歴史を振り返る時、順風満帆であったわけでは決してないのであり、解散の危機は何度もあったことだと思います。しかし、苦難の状況の中で踏みとどまり、祈り、教会を次の時代に懸命に繋げた人たちがおられました。苦難の中にこそ神の祝福と守りがあったということが証されているのではないでしょうか。アメリカの作家であり公民権運動家であった「ジェイムズ・ボールドウィン」は、イギリスの記者からのインタビューで「作家として歩み始めたとき、あなたは黒人で、貧しくて、同性愛者でした。そんなとき、『参ったな、なんて恵まれないんだろう』とは思いませんでしたか?(J. H. コーン『誰にも言わないと言ったけれど 黒人神学と私』2021年、p.263)」と尋ねたのだそうです。そうするとボールドウィンはキラキラした笑顔で「いや、これは一攫千金だと思ったよ」と答えたのだそうです。聴衆はつられて笑ったのだそうですが、決して軽い発言ではなく、「普通は人が否定してしまうような隅に追いやられた多様性をその身に引き受ける(J. H. コーン『誰にも言わないと言ったけれど 黒人神学と私』2021年、p.263)」ということです。私たちは神に従う中で辛さや隅に追いやられたことに神さまが働いてくださるということを信じ、これこそを希望としたいと思います。隅に追いやられたこと(多様性)を引き受けた時そこにこそ祝福があり、強く、魅力的な恵みが備えられていることを信じたいと思うのです。
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