マタイによる福音書 19章13~15節 桝田翔希牧師
9月19日は敬老祝福の礼拝を尼崎教会では守っています。今朝の聖書個所はマタイによる福音書で「子供を祝福する」というタイトルの個所ですが、ここにあるイエスの祝福の祈りを通して、敬老祝福の時を共に覚えたいと思います。この物語はマルコとルカでも書かれていますが、マタイはわざわざ「祈ってもらう為に連れてこられた」と説明します。当時、偉い人に手を置いてもらうと、何か力が流れ込むという「魔術的」ともいえることが信じられていました。おそらく、子どもを連れてきた親たちもそのように思っていたことでしょう。このような考え方は、日本の文化では浸透しているものだと思います。「キリスト教はご利益宗教でない」という言葉を聞くことがありますが、この祈りの場面を私たちはどのように解釈すればよいでしょうか。
現代のユダヤ教の教師であるH. S. クシュナーという方は著書の中で「祈り」について触れておられました。ユダヤ教では律法に関する解釈を集めた「タルムード」というものがあるのですが、その中では「過去に逆戻りしたり、訂正したりすること(H. S. クシュナー『なぜ私だけ苦しむのか -現代のヨブ記』2008年)」は不適切な祈りとされているのだそうです。ご利益を求めるあまり、理不尽な祈りをしてしまう人間の姿を思わされます。苦難の中で祈るとき、自分の思い通りにいくと祈りが聞き入れられたという気もするものですが、そうでなかった場合、祈りは神に聞き入れられなかったということなのでしょうか。祈りが聞かれるということは、自分たちの周りに神の力(恵み)が存在することに気づくことなのではないでしょうか。
子どもに手を置きイエスが祈ったとき、魔術的な証は何も書かれていません。ここでのイエスの祈りは、そのようなものではなく、子どもたちもこれからの人生の中で神さまの力に気づくことができるようにという祝福であったのではないでしょうか。コロナ禍にあって、呪術的な祈りを求めがちな日々です。しかし、祈りは私たちが神の恵みに気づき、互いに結ばれることであるということを受け止めたいと思うのです。敬老祝福の祈りも、人生の恵みに感謝して互いに喜びを分かち合うときとなればと思います。
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