top of page

2021年9月19日説教要旨「共にある祈り」

  • masuda4422020
  • 2021年9月18日
  • 読了時間: 2分

マタイによる福音書 19章13~15節 桝田翔希牧師


9月19日は敬老祝福の礼拝を尼崎教会では守っています。今朝の聖書個所はマタイによる福音書で「子供を祝福する」というタイトルの個所ですが、ここにあるイエスの祝福の祈りを通して、敬老祝福の時を共に覚えたいと思います。この物語はマルコとルカでも書かれていますが、マタイはわざわざ「祈ってもらう為に連れてこられた」と説明します。当時、偉い人に手を置いてもらうと、何か力が流れ込むという「魔術的」ともいえることが信じられていました。おそらく、子どもを連れてきた親たちもそのように思っていたことでしょう。このような考え方は、日本の文化では浸透しているものだと思います。「キリスト教はご利益宗教でない」という言葉を聞くことがありますが、この祈りの場面を私たちはどのように解釈すればよいでしょうか。

現代のユダヤ教の教師であるH. S. クシュナーという方は著書の中で「祈り」について触れておられました。ユダヤ教では律法に関する解釈を集めた「タルムード」というものがあるのですが、その中では「過去に逆戻りしたり、訂正したりすること(H. S. クシュナー『なぜ私だけ苦しむのか -現代のヨブ記』2008年)」は不適切な祈りとされているのだそうです。ご利益を求めるあまり、理不尽な祈りをしてしまう人間の姿を思わされます。苦難の中で祈るとき、自分の思い通りにいくと祈りが聞き入れられたという気もするものですが、そうでなかった場合、祈りは神に聞き入れられなかったということなのでしょうか。祈りが聞かれるということは、自分たちの周りに神の力(恵み)が存在することに気づくことなのではないでしょうか。

子どもに手を置きイエスが祈ったとき、魔術的な証は何も書かれていません。ここでのイエスの祈りは、そのようなものではなく、子どもたちもこれからの人生の中で神さまの力に気づくことができるようにという祝福であったのではないでしょうか。コロナ禍にあって、呪術的な祈りを求めがちな日々です。しかし、祈りは私たちが神の恵みに気づき、互いに結ばれることであるということを受け止めたいと思うのです。敬老祝福の祈りも、人生の恵みに感謝して互いに喜びを分かち合うときとなればと思います。

 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年3月2日説教要旨「疑いの心」

マタイによる福音書 14章22~33節 桝田翔希牧師 礼拝当日は3月2日ですが、翌日の3月3日と言えば多くの人が「ひな祭り」を連想する日ではないでしょうか。しかしこの日にはもう一つ歴史的に大きな意味がある日で、1922年に全国水平社創立大会が行われた日です。大会で採択された...

 
 
 
2025年2月16日説教要旨「神の律法」

マタイによる福音書 5章17~20節 桝田翔希牧師 2月11日は【信教の“自由”を守る日】として守っています。「自由」ということについて、キリスト教の中のプロテスタント、そして更にその中の組合教会(会衆派)と呼ばれるグループでは「自由」という言葉がキーワードの一つとされてき...

 
 
 
2025年2月2日説教要旨「思い改めて」

マタイによる福音書 21章12~16節 桝田翔希牧師 この1週間、フジテレビの記者会見などがあり大変なことになっていますが、テレビや放送ということに関係して、私たちが普段扱うことのないような大きなお金が動いているということを感じました。また近年では、個人が動画を配信できるよ...

 
 
 

Comentarios


  • Facebook

©2021 by 日本基督教団 尼崎教会

bottom of page