マタイによる福音書 6章22~34節 桝田翔希牧師
先日、教会の近くにある商店街に買い物に行ってみました。個人的には今まで日常の買い物はスーパーや量販店で済ますことが多かったので、店先で買い物がされる様子や会話がある買い物の風景というものは新鮮に感じました。コロナ下にあっては買い物も早く済ますようにアナウンスされ、「無駄」な動きがなくなりました。加えて、通販を利用することも多くなりましたが、手続きが早いという一方でどこかもの悲しさも感じます。無駄なものがないわけですが、それもまた悲しいことなのかもしれません。
お読みいただいた聖書箇所では「空の鳥・野の花を見よ」という有名な言葉があります。この箇所は、「現実逃避して自然の中で休みなさい」という意図ではなく、「神が造られた世界を見よ」という呼びかけなのではないでしょうか。創世記の創造物語で、神は秩序だって世界を創造されました。この世界はそれぞれの生物が個として完結するものではありませんでした。吉野弘という詩人の方の詩で「生命は」の中に「自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい 花も めしべとおしべが揃っているだけでは 不充分で 虫や風が訪れて めしべとおしべを仲立ちする」との一節がありました。玄関先に桔梗の鉢植えがあるのですが、花が咲く様子を興味深く眺めていました。つぼみがパンパンに膨らみ、はじけるように花が咲き、めしべとおしべが成熟していく様子が観察できました。そこに虫がやってきて、花がしぼむと子房が大きくなりました。一つの花では完結しない仕組みがありました。
野の花を見る時、そこには「個」で完結しない命の在り方があります。私たちも人間も聖書の世界観に立つとき、決して「個」では完結しない存在であることを知らされます。潔癖を求め不純物と思うものをなくそうとする社会にあって、私たちは「緩やかなつながりのある世界」の個であることを忘れてはいけないように思います。優越をつけ劣った命を見つけようとするのではなく、神の世界に生きるあなたと私であることを大切に受け止めたいと思います。
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