マタイによる福音書 5章21~37節 桝田翔希牧師
新型コロナの影響下にあって、教会の活動も大きな影響を受けました。今まで会堂に直接集まって礼拝をささげ、交わりが生まれるということが大切にされてきましたが、それが十分に行えなくなってしまいました。時代の変化の中で、礼拝や聖書の解釈も変化するということはあったと思いますが、私たちはこの一年で大きな変化を経験しました。
マタイによる福音書 5章21~37節では、イエスによって律法に関する説明が書かれています。「○○してはならない」という言葉が繰り返され、「反対命題」とも呼べる箇所であります。この部分では4つの律法についてのイエスの解釈がなされています。「反対命題」と言われるように、「否定」が続きますので律法そのものを否定しているようにも感じてしまいますが、ここではイエスによる律法の積極的な再解釈が行われています。当時、神殿へのささげものは、「自らの清さ」を守るためにも重要視されていました。しかしイエスは、それ以上に大切なことがあると説きました。律法の本質を考えなければいけないと言われました。
私事ですが、コロナ下にあって発熱したことがありました。数日で治ったものの、PCR検査は受けられず大事をとって礼拝も休んだことがありました。自分が説教の担当ではなかったので予定通り礼拝は行われましたが、壁の向こうから漏れる礼拝の音を聞く日曜日というものを初めて経験しました。礼拝が休止されるというとき「教会としての礼拝」は考えていましたが、そこには「礼拝に交わる個」の存在が自分の意識としては欠けていたように感じました。礼拝について、近年では人々が主体的に礼拝に参加するという意味で「リタジー」と表現されることがあります。そう考えた時、コロナ下にあって直接集うことはできなくても、「個」としてそれぞれの場所で神に招かれているということに気づかされます。
礼拝ということについて、一概に一言で表現することは難しいものです。さらに解釈というものもどんどん変化します。イエスは、当時の知識階級が専有した律法解釈に異を唱えました。真理を見ることの大切さを説かれました。複雑化する社会にあって真理を見ようとする行為は難しいものです。イエスのように語ることはできなくても、真理に近づこうとするものでありたいと思います。
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