マルコによる福音書 13章21~37節 桝田翔希牧師
本日からクリスマスを待ちつつ備える期間である「待降節(アドヴェント)」が始まります。いつもであれば、行事の準備で忙しい季節ですが、ここ2年は新型コロナの影響で忙しいと言うよりは、悩む期間のように感じます。新型コロナで様々な不安が社会を包み、この2年間を振り返ると、本当かウソかわからない言説も多く広まりました。このような状況にあって、聖書にある「わたしの言葉は決して滅びない」という言葉は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
この聖書箇所は「小黙示録」と呼ばれる箇所です。現代よりも迫害や異端と呼ばれた人たちの存在が強かった初期キリスト教会にあっては、この世の終末が来るということは大切な考えでした。しかし、多くの仲間が信仰のゆえに命を落とす現実がありながら、なかなか終末は来ず、神の裁きもくだらない状況がありました。一方で、キリスト教に関する考えも今ほどに体系的なものでありませんでしたから、解釈を巡って異端が誕生するということも現代より多かったのかもしれません。異端の存在は原始キリスト教会にとっては大きなものでした。22節の「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとする」との言葉にはこのような状況を読み解くことができます。歴史の中で「キリスト教とは何か」ということが問われ続けて、確立されていった伝統は大切なもので、私たちが悩むときの指針にもなります。しかし、「異端」と決める「力」は「排除の力」という側面があることを忘れてはいけません。
現代では異端に悩ませられることはあまりありません。カルトと呼ばれるグループはあるわけですが、排除しようとする力が行使される場面はあまりないように思います。しかし、この「排除の力」は表に出ないだけで、教会の中に内在されているのではないでしょうか。E. V. スペルマンは性差別からの解放と両性の平等とを目指す運動であるフェミニズムの運動の中に、アフリカン・アメリカン女性の存在を無視(無化)する力を指摘し(”Inessential Woman”,1988)、このことは第三波フェミニズムの大きな要素とも言われます。スペルマンが指摘したことと、私たちは決して無関係ではありません。私たちは知らず知らずのうちに多数派や強者としての属性を少なからず持ち、無意識の特権を持っていることがあります。この特権は無意識に他者を無化する力へとなるのです。「わたしの言葉は決して滅びない」、という言葉は時として都合よく、聖書の言葉を信じる私の思いも滅びないと解釈してしまいそうになります。しかし聖書の言葉は滅びなくても、解釈は滅びることがあります。イエスは社会の中で掻き消されそうな、「無化」された人たちと歩まれました。私たちは、どこに滅びない言葉を見出そうとしているのでしょうか。
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