2025年4月6日 受難節第5主日礼拝説教要旨
- masuda4422020
- 5月3日
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「つかえる者」桝田翔希牧師
マタイによる福音書20章20~28節
年度の変わり目にあたり、予算組みなどもする時期ですが、ここ最近はすべての値段が上がっており予算組みも難しくなっています。信仰共同体としての教会はこの世とは違った価値観を大切にしていますが、お金の問題は切り離すことができません。バランスをとるということが大切なのだと思います。世の中は、なんでもお金になるかどうかということが重要視され、放置すればなんでも金儲けに利用されていきます。ある方は野宿者を行政が支援しなくてはいけない理由を、経済に有利かどうかで論じていました。そういう問題ではないわけですが、私たちの根本的な考えはすぐに崗年㋑流れてしまうのかもしれません。
ヤコブとヨハネの母親は、イエスの宇座の左右に自分の息子が座れるように願いました。これを聞いた他の10人の弟子は怒り出します。弟子たちの中でだれが一番偉いかという議論はよくされていたことでした。王座の左右という表現は聖書の中で何度か出てくるものですが、当時の文化として政治的な権力を暗示するものであったと考えられます。しかし、イエスは逆にそのような政治権力によって殺されていくので、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。(22節)」という問いは、十字架を暗示させる厳しい問いかけであったと理解することができます。
いつの時代の教会も人も、この世の権力構造に知らないうちに従ってしまいます。それは弟子たちも同じで、自分こそ弟子として優位な場所にいたいと願っていました。しかし、そのような心を打ち砕き、むしろすべての人に仕えなさいとイエスは語るのです。私たちも権力構造の中で上位に行こうとしたり、この世の価値観の中でお金に支配され、他者を経済的に有益かどうかというまなざしで見つめてしまうものです。しかし、そのような思いを打ち砕いたのがイエスの十字架であったのです。
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