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2025年4月13日 受難節第6主日礼拝説教要旨

  • masuda4422020
  • 2025年5月3日
  • 読了時間: 2分

「キレネ人のシモン」桝田翔希牧師

マタイによる福音書27章32~56節

レントの最後の1週間は、受難週と呼ばれる特別な週となっています。レントの期間もそうで須賀、イエスの苦しみを想起するという意味で、何かを我慢したり断食をするということが行われたりします。しかし、断食をしなくても罰があるわけでもありません。消費の多い社会で生きていると、対価として何かを受け取ることが多くあります。キリスト教にもそのようなことを求めてしまうことがあるのではないでしょうか。宗教というものに対しても神が私たちに何をしてくれるのかということに注目してしまうものですが、神に対して何ができるのかということはレントの期間にあって私たちが問われていることなのだと思います。

イエスが十字架を背負って刑場まで歩く途中、衰弱しきった様子を見てローマ兵は見物していた「キレネ人のシモン」に代わりに十字架を背負うように命じます。その後、刑場にかけられたイエスは、人びとからののしりを受け「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(40節)」と言ったのでした。これは、人びとが宗教(イエス)に何を求めていたのかということがあらわれている箇所です。人々は力強いメシア像を求めていたということもありますが、わかりやすい徴が求められています。この姿は、神を自分の救いのために人間が道具にしようとしている姿を現しているとも言えます。そのような自分が救われることしか考えていない姿、神を消費しようという姿がここには表れているのです。

私たちも、神や宗教を道具として、自分が神に何をしてもらえるのか、どのような利用価値があるのかということばかりを考えてしまってはいないでしょうか。しかし、キレネ人のシモンは唐突にイエスの十字架という重いものを代わりに担ぐ者とされたのです。私たちもときにはイエスの十字架を負うことがあるのです。イースターを間近に控えたこの時にあって、私たちもイエスの十字架を代わりに担ぐことがあるということを覚えたいと思います。私たちも神の出来事に主体的に関わる存在なのです。

 
 
 

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