2025年3月30日説教要旨「イエスの変容」
- masuda4422020
- 5月3日
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マタイによる福音書 17章1~13節 桝田翔希牧師
私たちは、様々な変化を人生の中で経験します。また私たち個人の変化だけではなく、街も時間をかけて変わっていくものです。尼崎に赴任して4年間でも、店がつぶれたり、駅前が変わったりしました。街が変わっていく中で、私たちはどのような変化を望んでいるでしょうか。釜ヶ崎では、昨年、総合センターの周辺の野宿者排除ということが起こりました。総合センターは釜ヶ崎のシンボルともいえる建物ですが、建て替えが決まっています。建て替えてきれいになることは、街のために良いことかもしれません。しかし、この出来事が「街の浄化」の始まりかもしれないという危惧があります。街をよくしようと見せかけて実は金儲けのために利用される、「ジェントリフィケーション」という現象が世界中で起こっています。これは街の変化が資本の原理の中で行われ、「ミドルクラス(的なもの)による労働者階級の生=労働の暴力的な隠蔽と忘却の上に築かれ(堅田香緒里『生きるためのフェミニズム パンとバラの反資本主義』2021年、p.113)」る場合があるということです。
イエスの物語で、ガリラヤでの宣教活動とエルサレムでの受難の間に転回点とも呼べる物語が「イエスの変容」を伝える箇所です。ここで、日本の感覚で読むとよくわからないのですが、イエスは旧約聖書的な表現で神的であったり、栄光に輝く王的な説明がされています。これを見たペトロは感動して小屋を建てようと進言します。しかし、イエスはこれに応えることなく山を降り、受難の道へと向かわれました。イエスが変化して向かわれたのは、この世的な成功とは真逆の十字架への道だったのです。
イエスの姿が変わるという物語の転換点で、弟子たちはこの世的な成功者としての救い主像を抱きました。私たちはこの世で様々な変化を経験しますが、どのような変化を望むでしょうか。教会も、時代の転換点に置かれているともいえるでしょう。変化の中で私たちは「暴力的な隠蔽と忘却の上に築かれる」ということに知らず知らずのうちに加担することさえあります。しかし、すべての命が尊ばれるということをイエスは示されました。私たちの変化が「暴力的な隠蔽と忘却の上に築かれる」ものにならないように、日々の中で少しずつ抵抗しながら生きていくということが大切なのだと思うのです。
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