2025年3月23日説教要旨「岩の上の教会」
- masuda4422020
- 5月3日
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マタイによる福音書 16章13~28節 桝田翔希牧師
イースターが近づいてきましたが、この時はイエスの十字架での死と復活を改めて覚える期間です。十字架はシンボルとしてもよく用いられ、ファッションでも使われるので馴染みがあるものです。しかし、そもそもは死刑の道具であり、恐怖で民を支配するための道具です。法律では人を殺すことは許されませんが、死刑は合法的に人を殺すということです。社会的に存在を抹殺されるということです。
15節には「(イエスを)何者だというのか」という問いかけがあります。これは恐らく福音書が書かれた時代の教会が大切にした問いだと考えられます。イエスは主であるという信仰告白は、現代でもキリスト教教会の根幹になるようなものです。この後、聖書には「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(24節)」という言葉があります。レントに読むにふさわしい箇所のようにも思います。復活のイエスを主であるとする時、私たちが自分の十字架を負うとは何を意味するのでしょうか。自己犠牲を勧める箇所のようにも感じられます。
聖書学者の山口里子さんは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉について、イエスの死後に創作されたものであるという指摘を前提として、「苦しめられ、困窮させられて、必死に生きている人々に対して、自己犠牲を我慢(山口里子『マルコ福音書をジックリと読む―そして拓かれる未来の道』2023年、p.179)」するようなことをイエスが語るのだろうかと疑問を投げかけておられます。そして、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(26節)」という箇所に注目し、抑圧など社会的な圧力の中で命を失った人たちに対して、生物学的な命は失われたが、「プシュケー(自分自身全て)を失ったのではない。最後まで自分自身のプシュケーを大事に生きた(同上)」というメッセージを読み解いておられます。復活のイエスを賛美する時、それは全ての命を尊重するということに他ならないのです。この社会の中で命を大切にするというキリスト教教会の姿勢が固まるのではないでしょうか。そのような土台に立つ教会・キリスト教でありたいと思うのです。
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