2025年1月5日説教要旨「イエスの公生涯」
- masuda4422020
- 1月11日
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マタイによる福音書 4章1~11節 桝田翔希牧師
2025年、新しい年を迎えました。この1年が希望に満ちたものになることを願いながら、歩みを始めたいと思います。年末年始は兵庫教区に来てからは、神戸の冬を守る会の越年活動に参加するようになりました。阪神淡路大震災を契機に始まった炊き出し活動と伺っていますが、震災の被害はより大きな格差を生み出したのです。炊き出し活動の中で、よく思い出す言葉が釜ヶ崎におられた金井愛明先生の言葉です。「炊き出しに並んでいる労働者を救済の対象ではなく、闘いの同志であることを確認しながら炊き出しを続けていきます(関西労働者伝道委員会『イエスが渡すあなたへのバトンー関西労伝60年の歩みー』2017年、p.256)」。炊き出しという活動で、炊き出しに並ぶ人のことを単なる救済の対象として見てしまいがちであるということを思わされます。人間としての出会いが無くなってしまうのです。
マタイによる福音書では、イエスの活動の始まりの時期について洗礼者ヨハネによる洗礼の後に、悪魔からの誘惑があったとします。悪魔との対話という物語は、神話的要素も含まれていると考えられますが、ここで悪魔は三つの誘惑をしています。パンの誘惑、神を試す誘惑、この世の栄華を手に入れるという誘惑です。パンの誘惑を詳しく読むと、イエスは「人はパンだけで生きるものではない。(4節)」と返答しますが、これはパンがなくても生きていけるということではありません。悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。(3節)」と言っています。これは、神に頼むことなく自分の力でパンを得たらどうかという誘惑なのです。私たちもこのような誘惑に日々さらされていると思います。他の誘惑も神を抜きにした生活への誘惑があります。人として産まれたイエス(受肉)を祝うのがクリスマスですが、この箇所でも人間としてのイエスが描かれているのです。
神であり人であるイエスの物語を読むとき、私たちはどうしても神的な部分に注目してしまいます。しかし、聖書を通してイエスと出会う時、神としてのイエスと同時に、人としてのイエスとも出会っているのです。同志として、同じようにこの世の中を生きる人間として出会うということが大切であると思わされます。新しい年を迎えましたが、この一年がこの世的にも豊かなものになることを願いながら他者と人間としての出会いをしながら、神の栄華をこの世に示すことができればと願っています。
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