マタイによる福音書 3章13~17節 桝田翔希牧師
日本の年末年始は宗教行事が続く季節と言えるかもしれません。クリスマスを祝った後、除夜の鐘を聞いて年末を過ごし、年明けには初詣に行く人が大勢います。普段であれば宗教色の薄い日本が、急に宗教に関わる生活にこの時期だけなります。フランスの社会学者であるデュルケムは、宗教の原初的な目的は人と神との関係より、人と人との関係性を保持することにあるという分析をしました。今日の日本の状況は、年末年始の家族の集まりと、宗教的文化の継承が関連しているのではないかと思います。
洗礼者ヨハネからイエスは洗礼を受けようとしますが、ヨハネはイエスの方が優れているとして最初は洗礼を拒否しました。しかしイエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」として洗礼を受けました。イエスの先駆者であるヨハネも、イエスの本意がわからなかったのです。これは、人それぞれにおいて神の業のあらわれ方が違うということが言えます。洗礼の後、天から声が聞こえ「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(17節)」と語られます。「愛する」という表現は聖書で言うと「霊を与える」ということと同じ意味を持つ表現となっていますが、これは神とイエスの関係性が説明されている箇所であると言えます。ここでは神とイエスの関係性が絶対のものであるということが表明されているのです。
関係性ということについて、現代日本では宗教的なものが薄れ「神‐人」の関係が薄れています。また、無縁社会や自己責任ということを思えば「人-人」の関係も希薄になっています。しかし、私たちの体は本来、外に開かれて作られているともいえるそうです。例えば私たちが目を通して何かを見る時、モノや動きを感じているのは目の中にある網膜であり識別しているのは脳であう。モノは外にあって、感じているのは内である神経です。これは「人はほんらい外の物を外の物として捉えるようにできていて(浜田寿美男『「発達」を問う―今昔の対話 制度化の罠を超えるために―』2023年、P.49)」、人間の体の仕組みは外に向かうように、周囲に開かれるようになって機能するようにできているということです。教会という共同体がこれからどのようになっていくのか、その未来を聖書に訪ねながら神の招きを受け入れるものでありたいと思います。
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