ヨハネによる福音書 10章1~6節 桝田翔希牧師
この1週間は教区のプログラムで石垣島を訪れていました。せっかくなので「沖縄そば」を食べようと思っていると、石垣島では「八重山そば」ということを教えられました。石垣島や西表島を含む地域は「八重山」と呼ばれており、料理の名前になるほどなのです。「沖縄県」ということだけでひとくくりに考えていた自分に気づきました。ある地域に生きていて、自分たちの地域を何と呼ぶのかということは大切なことだと思います。
聖書には「羊や羊飼い」ということが、新約でも旧約でもよく登場しています。それほどにイスラエルの生活でよく見る職業であったと考えられます。この聖書箇所からは羊飼いがそれぞれの羊の名前を覚え、羊は羊飼いの声を覚えているという信頼関係が描かれています。そして神は羊飼いのように私たち人間一人ひとりの「本当の名前」を呼んでくださる方であるということが解釈できます。しかしこのたとえ話をファリサイ派の人々は理解することができませんでした。十字架を通してでしか理解できなかったということも言えるかもしれませんが、ボンヘッファーは「実際に起こったことを、教会は、いつでも20年もあとになってからようやく理解する」ということを言っておられたのだそうです。私たちもファリサイ派のように頑なになっていることがあるかもしれません。
時に社会の中で私たちは「本当の名前」以外の呼称で呼ばれることがあります。「牧師」とか「そこのお兄さん」とか、属性や肩書で呼ばれるということは珍しいことではありません。しかし、これは社会による名づけということもできます。釜ヶ崎という地域の名前は、かなり昔から地図上からは無くなっています。しかし、そこに住む多くの人々が、釜ヶ崎という呼び名を使います。しかし、行政は同じ地域を指して「あいりん」という呼称を用い、行政の施設にもよく使われています。ここにも「名づけ」があります。神は私たちを「本当の名前」で読んでくださると信じたいと思います。しかし社会は時として勝手なイメージで名づけをしてしまうのです。
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