ヨハネによる福音書 11章1~6節 桝田翔希牧師
私たちは幸せになりたいと願いながら、誰かの不幸の上に自分の幸せが成り立つことがよくあります。「他者を犠牲にして自分の富を得ようとすることで、実は貧しくなってしまう(平良修『沖縄にこだわりつづけて』2002年、p.158)」ことがよくあります。「沖縄の近、現代100年の歴史は、富者である日本国権力とそれを支えるヤマトーいわゆる「本土」ーによって貧者の道を強要され続けてきた歴史(同上)」でありました。
イエスは姉妹であるマルタとマリア、そしてその兄弟であるラザロという人たちと関係がありました。物語の大枠として、このラザロという人は病で死に、イエスによって蘇ることができます。今日の箇所はその序章の部分となっています。イエスとラザロの関係について、姉妹のマルタとマリアは「イエスがラザロを愛している(フィレオー)」と説明しますが、その後に箇所で聖書は両者の関係を「愛している(アガパオー)」と説明します。聖書で「愛」と訳される言葉は、ギリシャ語では複数の単語があり、日本語よりギリシャ語は「愛」にまつわる詳しい感覚があります。姉妹たちが説明する「愛(フィリオー)」が友愛とも訳される単語ですが、「アガパオー」は神の無償の愛を意味しています。個人的な愛ではなく神の愛によって、ラザロは生き返るのです。
アガペーの訳語として、日本語の聖書ではじめのころの宣教師は「大切」という言葉を当てています。日本語の「愛」と聖書の「愛」はどこか違うと思ったのでしょうか。釜ヶ崎で働いておられる神父の本田哲郎先生は「アガペー(愛)」は「人をその人として大切にする(本田哲郎『聖書を発見する』2010年、p.229)」と訳すことを提唱しておられましら。イエスの行動の原理は「人をその人として大切にする」ということでした。私たちの社会でも、このことはいまだに声高に叫ぶ必要があります。私たちも、神の愛ということ、「人をその人として大切にする」ということを示されるとき、この社会の中で眠りから起こされようとしているのです。
コメント