ヨハネによる福音書 10章31~42節 桝田翔希牧師
何となくですがコロナ下が明けはじめ、今年の夏も「夏らしい行事」が再開されたように思います。「日本の夏」と言えば盆踊りなのかな、と尼崎に来てから思うのですが、私が生まれ育った滋賀県の竜王という場所では、あまりありませんでした。しかし、尼崎に来てからこの2年で夏になると盆踊りの音が聞こえたりして、大事にされているのだろうと感じています。盆踊りは先祖の霊を思うということがもとになっていると聞きますが、現代日本の盆踊りで、先祖崇拝ということがどれほど思われているのでしょうか。否定するわけではないですが、文化的な行事が習慣となり、元々のことが薄れていくということはよくあることかと思います。
この所、聖書日課ではイエスが三位一体という考えのなかで、神と同一であるということが繰り返し語られています。そしてイエスは自らを「神の子(36節)」と自称しています。イエスについての呼称は聖書の中で様々なものがあります。聖別されたという意味で「メシア」と呼ばれたり、「神の子」という呼称もあります。イエスに対して私たちは、神的なコトをすぐに想像してしまいますが、「人の子」という表現もよくされます。イエスの発言として自分自身を呼ぶときには「人の子」という言い方をしているという傾向があります。この「人の子」という呼称は、イエスたちが話していたとされるアラム語に由来する表現のようで、元々は何も特別な意味を持たない表現であったようで、「一人の人」という意味があったようです。「イエス自身好んで『人の子』という表現を用いた(田川建三『イエスという男』1993年、p.332)」ということが考えられます。
ユダヤ人たちがここでイエスを殺そうとしたとき、そこにはイエスを人間として見ることはできない、人権が剥奪される犯罪者としてイエスを見て、殺そうとしているのです。イエスが人であった、ということは聖書の中に描かれていながら、ついつい私たちは忘れてしまい、神としての性格や奇跡を行う人とだけとらえてしまうことがあるように思います。今一度、人の子として救い主の生き方をされたイエスの生涯に思いをはせるものでありたいと思うのです。
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