ヨハネによる福音書 8章31~36節 桝田翔希牧師
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(32節)」という聖句は有名なものの一つかと思います。短い文ながらどこか納得できるような言葉ですが、真理はなかなか難しいものかと思います。キリスト教は長い歴史の中で、聖書の言葉を捻じ曲げて使うということもありました。一つの例では、アメリカにおいて黒人を奴隷にするということを肯定するために聖書が使われたことがありました。「黒人は無能であるから、この世で白人の手ほどきによって従順に働けば、必ず天国で救われるという考えを押し付け、奴隷としての身分を受け入れさせようとした(山下壮起『ヒップホップ・レザレクション ラップ・ミュージックとキリスト教』2019年、p.60)」のでした。聖書を読みながら、差別をすることがあるのです。
この聖書箇所は47節までが大きなまとまりとなっていますが、その中で大きく語られていることをまとめると、「①真理」と「②信仰」ということになります。まず信仰ということについて考えると、ヨハネによる福音書はネガティブな意味で信仰を語るということがよくあります。例えば十字架の死から復活したイエスを実際に見ないと信じないという描写がされているのもヨハネによる福音書ですが、「疑う肉の信仰」というようなことがヨハネによる福音書には書かれる場合があります。その中で「真理」が語られています。真理とはヨハネによる福音書がよく用いる単語ですが、「軽信」と並べてここでは語られているのです。人間が追い求める真理は、本当だと思っても違ったり簡単なものではないのではないということではないでしょうか。
聖書を読めば真理を知ることができるのかと言えば、必ずしもそうではないようです。聖書を詳しく読んでいると、どうやら文字を読めるエリートが力を持ち始めて、文字化されていない口伝の教えや、口伝の活動をしている人に対してあまりよく思っていなかったのではないかと推測できる箇所があります。テモテの手紙14章7節では「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。」ということが書かれています。「俗悪で愚にもつかない作り話」と新共同訳では翻訳されていますが、「女性がするような作り話」というようにも訳すことができます。ここには、文字が扱える一部のエリート男性が教会の主権を握った過程を読み解くことができます。時代が変わる中で、ようやく見つけられる人権というものもあります。そのことに照らし合わせて聖書は読み続けられてきました。私たちは連綿と続くそのようなキリスト教の歴史の今を生き、真理を探し続ける存在なのだと思います。
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