ヨハネによる福音書 7章1~17節 桝田翔希牧師
「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(いわゆる教団の戦責告白)」が出されてから50年以上が経過しました。この告白は第二次世界大戦において、日本基督教団が戦争に加担し、アジアの侵略にも協力したことへの反省という側面があります。しかし、いまだに世界は平和でなく、戦責告白の内容が日本において完全に実質化されたというわけではありません。そして私たちも絶えず歴史を見直し、平和のために働かなくてはいけない状況も変わってはいません。長い時間がかかっています。
ヨハネによる福音書で、イエスは「命のパン」ということを語りましたが、私たちは聖餐式などと関連して解釈ができるので理解に苦しむものであありません。しかし、その場で実際にこの話を聞いた多くの人々はイエスのことが信じられなくなり、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(66節)」のでした。これを見たイエスの兄弟は、もうすぐ行われるユダヤの三大祭りである仮庵祭で自分のことをあらわにしたらどうかと進言します。多くの人が集まる大切なお祭りで宣伝すれば、また人が集まるだろうということでしょうか。イエスの答えは「わたしの時はまだ来ていない。(6節)」と語りました。この「時」とは神の決定的な時を表す「カイロス」というギリシャ語がつかわれています。人間の都合や予想ではない、神の時にこそイエスの姿があらわされるのであり、人間は待たなくてはいけないのです。
平和な世の中を求める時、私たちは待つしかない存在なのでしょうか。1964年アメリカのソウルシンガーであるサムクックは「A Change Is Gonna Come」という曲を作り、公民権運動でもよく歌われる歌(アンセム)となっていきました。この曲では「映画館に行っても 街に出ても いつか誰かに この辺をうろつくなと言われる 長い時間 ほんとうに長い時間がかかっている でも私は知っている 変化はやってくる 必ずやってくる」と歌われています。平和な神の時を私たちはただ待つだけではないのです。長い時間がかかったことは知っていることですが、それでも希望を信じて歩みださなくてはいけないのです。
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