ヨハネによる福音書 8章12~20節 桝田翔希牧師
イエスは世の光であり、肉によって裁くことはない存在ですが、この世を生きる私たちはしばし判断に困ることや、長い時間をかけて間違いであったと気づくことがあります。日本のキリスト教の歴史を見ると、戦後の長い間をかけて議論されていることもいくつかあります。その一つに「反万博闘争」があります。1970年の大阪万博にキリスト教館を出展するということをめぐり、万博の植民地主義思想などが議論されました。実際、万博の先駆け的な存在である内国勧業博覧会では、人類館というものがあり、生きた人間が展示されていました。景には植民地支配領域の拡大を内外に示そうとする意図があったと指摘されています。
イエスが世の光であるということは、聖書の中で繰り返される表現であります。出エジプトの物語で、逃げ出した人々を火の柱が導いたように、イエスは人間が生きる行く先を照らす光であります。しかし、イエスを批判するファリサイ派はイエスが神であることは理解できず、肉に従うだけであるとイエスから批判されることになりました。聖書の中で「世の光」という言葉は、イエスの物語を知っているのであまり無理なく受け入れる言葉だと思います。しかし、私たちは日常の生活でどのような光を求めているでしょうか。
1970年の大阪万博は「人類の進歩と調和」がテーマとされ、様々な新技術が披露されましたが、万博と並行して大きなプロジェクトがすすめられていました。「万国博覧会に原子の灯」という合言葉の元で、美浜原発が建設されたのです。この原発は日本でも最初期に建造されたものですが、表向きにはクリーンなエネルギーであり、「人類の進歩と調和」にはぴったりな発電所だったのでしょう。しかし、継続した運転で大量の被ばく労働者が必要とされることは、あまり表ざたにされませんでした。日本に原爆が落とされてわずか30年あまりで、このような場所がつくられたのです。日本が追い求めた「光」は「原子の灯」でありました。この灯は一部の労働者の健康が害されることが前提となっている「灯」なのです。人間を導こうとする世の光であるイエスは、少数を切り捨てる灯なのでしょうか。私たちが生きる社会はこの時代にあって、どのような輝き(光)を追い求めているのでしょうか。50年前から社会はどのように変わっているのでしょうか。
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