ヨハネによる福音書 8章3~11節 桝田翔希牧師
8月15日の終戦記念日を経た主日を迎えています。79年前日本は戦争に加わり、多くの人が命を奪われました。この出来事は何であったのかという問いは、79年経った今でも私たちが向き合わなければいけないことです。しかしその内容は難しく、「戦争」と一言で言っても様々な事柄が含まれています。「戦争はいけない」ということは大切ですが、一言では片づけられないのであり、そうであるから戦争は終わることなく今も続いています。「戦争」とはいったい何なのでしょうか。
ヨハネによる福音書8章は新共同訳でカッコで囲まれていますが、これは主要な写本にこの箇所は書かれておらず、またヨハネによる福音書の文体とも異なるため、後の時代の付加である可能性が高いという意味があります。しかし、短い物語でありながらよくまとまっている箇所というようにも言われていて、内村鑑三はこの箇所について「全福音書の縮写」と表現しています。ここで一人の女性が罪を犯したとして引き出されていました。そしてこの女性が処刑されるべきかどうかという問いがイエスにされています。この質問は意地悪な質問で、イエスを貶めようという意図がありました。ローマ帝国に支配されるイスラエルは死刑の権限を持ちませんでしたが、ユダヤ教の考えではこの女性を死刑にすることもできました。死刑にするかどうか、どちらに答えてもイエスは捕まる可能性がありました。しかし、イエスの短い一言で人々はこの女性を罪に定めることはできないと考えを改めました。この女性が罪だと言われた事柄はそれほどの些細なこと(微妙なこと)だったのです。人々はイエスを貶めるためにこの女性を道具として利用しただけだったのです。
私たちが生きる社会で、時に人間は道具として扱われ人間としての尊厳を奪われます。戦争は人間性を奪う場所であるとも言えます。「自衛」という言葉もありますが、歴史を見れば軍隊が住民に自決用の手りゅう弾を配ることや、秘密保持のために殺す計画さえありました。軍隊の一番の目的は、守ることではなく殺すことなのです。ここで人間性は容易に奪われていきます。私たちが生きる社会は、戦争から遠く離れているような平和な世界と感じることもあります。しかし、労働の在り方、差別のある社会において、人間が人間でなくされることは身近な出来事です。聖書で女性が道具として扱われたこの出来事は私たちの近くでも起こっており、戦争の場でも起こっていることなのです。
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