ヨハネによる福音書 7章40~52節 桝田翔希牧師
先週の8月第1日曜は【平和聖日】でしたが、今日の主日は8月11日でこの1週間は2つの原子爆弾が落とされた日であり、平和について深く考えるものでありました。今年、研修で長崎を訪れることがあったのですが、病院の前に「被爆検診」という大きな看板があるのを見ました。兵庫に住んでいるとあまり見ない看板ではないかと思います。原爆の被害は今も続いているということを感じた出来事でした。
仮庵祭でイエスは「水」について語りました。これは過越祭で水を使った儀礼があったことと関係していると思われますが、このことについて民衆の反応の一つやファリサイ派の人々は議論で、「イエスはガリラヤ出身である」という共通の反応がありました。ここで以前イエスと会ったことのあるファリサイ派のニコデモは、イエスをそんなに悪く言うべきではないと進言しますが、「お前もガリラヤに生まれたのか」と反論されています。ガリラヤに生まれるということがファリサイ派の人々の中で否定的なこととして用いられているのです。私たちが生きるこの社会では、「どこで生まれたのか?」という話題がよくあります。多くの人が何も気にせず自分の出身地を言うことが出来ながら、時にあまり言いたくない時もあります。また、自分が経験したことのせいで差別されることもあり、自分の人生をすべて言うことのできない人もいます。原子爆弾で被爆したということは、公に言う時、差別されることもありました。
私たちが生きる地域で、「被爆」ということを聞くことがどれほどあるでしょうか。長崎にあったように、病院に「被爆」という看板を見ることはあまりありません。しかし、広島や長崎で被爆し、生活の基盤のために関西に移住した人は少なからずおられます。しかし私たちは身の回りにそのような方をすぐに見つけることはできません。これは、そのような人が私たちの周りにいないということではなく、自分の経験や出身地が離せない人がいるということではないでしょうか。原爆の痛みは広島や長崎だけのことではなく、私たちの生きる場所のことでもあるのです。
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