ヨハネによる福音書 6章41~59節 桝田翔希牧師
よくお城に関する冗談として、「大阪城をつくったのは豊臣秀吉ではなくて大工さん」というものがあります。私も小学生ぐらいのときにそんなことを言って笑っていた記憶があります。なぜこれが冗談になるのか考えると、大阪城に関連して歴史の中で名前が残るのは豊臣秀吉であり、大工さんの名前は残すものではないという考えがあるのではないかと思います。出エジプト記では、イスラエル人がエジプトで奴隷として働き「ファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。(出エジプト記1:11)」ということが記録されています。紀元前1200年ごろにラメセス2世という王の命令によって、「ペル・ラメセス」という町が建造され、エジプト側の資料にも在エジプトの外国人が労働力として石を運んだということが残されています(山我哲雄ほか『旧約新約 聖書時代史―聖書歴史年表つき(別冊)―』1992年、p.34)。しかし、エジプトの町を、誰が働いてつくったのかということは忘れ去られていくのです。
多くの奇跡を起こした後、イエスは敵対する人々と向かい合うことになります。ここで敵対した人たちは、「ユダヤ人たち」とまとめられていますが、イエスが育った町と関係があったようで、イエスの両親のことを知っていました。そしてイエスのことを「ヨセフの息子」と呼んでいました。イエスに対する呼称として、福音書の中では珍しい呼称となっていますが、他の箇所では「大工の子」と呼ばれることがありました。どちらにしてもイエスを馬鹿にする意味合いがあったと考えられます。
イエスやヨセフがしていた「大工」という職業が、当時のイスラエルにあってどのような働きをしていたのかということについては様々な議論があります。日本で「大工」と聞いて想像するような木をきって家を建てる職業、もしくは、家づくりのあいまに農機具の作成や修理をしていた、他には石をきっていた(石工)など様々な可能性があります。いずれにせよ、町の建設や城(神殿)の建設に実際に関わる立場でありながら、大阪城やエジプトの町をつくった職人と同様、特に名前を記録されない、忘れられていく存在でした。「大阪城をつくったのは大工さん」と言って笑われる立場にイエスは生きていたのです。そこからみ言葉を語ったのです。
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