ヨハネによる福音書 6章22~27節 桝田翔希牧師
暑い日々が続き命の危険も感じますが、コロナというものも表面的には落ち着き始めてきました。改めてこの4年間を振り返ると、私たちの生活は大きな変化がありました。マスクをつけることや、消毒をすることなど、知らない間に当たり前になっていたことがいくつもあります。家にいることも推奨され続けました。しかし、そのような中で肌が弱くマスクやアルコールが使えない人のこと、家がそもそも安心できる場所ではない人のことをどれだけ考えることができたでしょうか。推奨されたこれらの習慣は、多数にとっては生活の質の問題であったかもしれませんが、命の問題でもあった人たちがいました。
ヨハネによる福音書で、5,000人の給食の奇跡の後に、群衆はイエスを探し求めました。うわさが流れてきて、どうやら湖の向こう側に行ったらしいということがわかると、急いでイエスを探しに向かいました。カファルナウムという場所で人々はイエスを見つけ出しますが、そこでは感動の再開があったのではありませんでした。イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。(26節)」と突き放すようなことを言います。人々がイエスを追ってきた理由はイエスが言ったとおりだったのでしょうが、そこまで言われなくてはいけないのかという気もします。聖書の説明としては「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(27節)」と書かれています。すなわち肉体を維持する食べ物(肉のパン)ではなく、霊的な部分を養うもの(命のパン)を求めよということが書かれています。
寄せ場である釜ヶ崎では、日雇いの仕事が多く募集されますが、この雇用形態は経済の変化に大企業が柔軟に対応できるものです。雨が続いたり工事が少ない時期は、雇用することはなく、長期間雇用し続ける上での保障なども考えなくてすみます。いわば経済の安全弁として労働者が利用され、仕事がなければ野宿せざるを得ないという状況があります。この様子から様々な人権問題を考えることができますが、釜ヶ崎でよく聞く言葉の一つに「仕事がないことが人権侵害である」ということがあります。社会や大企業の利益のために、都合よく使われ、使い捨てにされ、尊厳まで踏みにじられる姿があります。「命のパン」を追い求めることは大切なことです。しかし、「肉のパン」も人間にはなくてはなりません。両方を追い求めなくてはいけないのです。どちらか片方を奪われることは、個人が十分に生きようとする姿を阻害されることであり、生活の質の問題なのです。
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