ヨハネによる福音書 6章16~21節 桝田翔希牧師
7月も半ばになりつつまだ梅雨は開けませんが、非常に暑い日々が続いています。近年は気候の変動や、温暖化ということがよく言われますが、ここまで暑いとそのような言論にも納得できます。しかし、温暖化は二酸化炭素の増加によるものなのか、疑問とされる部分もあり、自然の変化ということに対して人間はいまだにすべてをわかっているということではありません。わからない部分がある中で、「神の摂理である」と言うことは何となくわかりやす言葉であるように感じながら、そんな一言で超常的な力でごまかして片づけてはいけないようにも思います。
今回の聖書箇所は、「5,000人の給食」に続いて「湖の上を歩く」という箇所が続いています。この二つの物語はほかの福音書でも、連結して書かれているのでこの二つが連続する物語であるという認識が聖書の中に一貫しています。他の福音書と比べると特徴的な記述をすることの多いヨハネによる福音書ですが、二つの物語をほかの福音書と比較すると、イエスによって嵐がなぎになったりすることもなく、イエスが乗り込むことなく目的地に着くなど、やはり特徴的な説明がされています。これらの記述はイエスの奇跡がないと危機的な状況を脱することができないという状況設定をヨハネによる福音書は避けていると見ることができます。また、書かれていることから物語の核となった出来事を想像すると、何の変哲もない日常の出来事であったということも考えられます。ヨハネによる福音書は、何の変哲もない日常からイエスの奇跡を見出したとも言えます。
聖書が描く奇跡物語は私たちの経験から遠く離れたことが書かれているように感じる一方で、本当は私たちの日常とつながるものなのかもしれません。本田哲郎先生は釜ヶ崎での夜回りの経験で道で寝ている労働者に声をかけおにぎりを渡そうとしたとき、手を出そうとしなかった人がいたそうです。その人は周りで寝ている人たちを指して、「この人らの分もあるんか(本田哲郎『釜ヶ崎と福音』2009年、p.5)」と問い「わし一人やったら食われへん」と言ったのだそうです。道で寝るという状況の中で、自分のことだけでなく同じ境遇にいる人のことを考えるようになる、そのような話かと思いますが、この世の中でしんどさの中にある時に何か人間には力が働いていて、誰かと共に生きようとすることができるということではないでしょうか。「祝福されている」とも訳されるギリシャ語の「マカリオス」は「神さまの力が裏打ちする(本田哲郎『聖書を発見する』2010年、p.148)」とも解釈できます。日常の生活で助け合う時、そこに超常的な力とはまた違った「マカリオス」があることに気づき、そのような経験が奇跡物語として語られたのではないでしょうか。
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