ヨハネによる福音書 3章22~36節 桝田翔希牧師
尼崎教会では【子どもの日・花の日】に合せて、関係施設である「みどり野保育園」の創立を覚えています。戦前から尼崎教会は付帯事業として幼児教育を行ってきましたが、戦争によって休園になったことがありました。その後1949年に幼稚園が再開されますが、設立要旨には「平和国家の再建の為」との文言が見られます。長い歴史の中で尼崎教会にとって、教会が子どもと共に生きるということは時代により意味が変わりながらも重要な事柄でありました。
ヨハネによる福音書で、イエスとニコデモが対話をする物語の後に、洗礼者ヨハネの一団に関する物語があります。イエスより前に洗礼活動を行っていたのが洗礼者ヨハネでしたが、この時、イエスの行う洗礼にも人が多く集まっているという描写がされます。ヨハネはこのことについて「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(30節)」という、イエスが栄えるために自分は衰えていくという、「ヨハネ原則(小山晃佑『水牛神学 -アジアの文化のなかで福音の真理を問う-』2011年、p.266)」を語ります。しかし、ヨハネの一団にいた弟子たちにとって、イエスは言わば商売敵のように見えたのではないかと思います。
キリスト教にはさまざまな教派があります。それぞれが神学思想や歴史を背景に持っています。しかし、時には教派間のいい争いが起こることもあります。イエスを信じている点では一致できても、超えることのない違いが生まれることがあります。他教派を商売敵のように見てしまうこともあります。この違いということについてネガティブに捉えがちですが、全能である神は私たち人間に「言葉では言い尽くせぬ賜物(小山晃佑、2011年、p.238)」を示しているということの現れなのではないでしょうか。キリスト教には教派だけではなく、社会事業に関わる多くの施設があり、それぞれが多様なやり方をもってイエスの教えをこの世に実践しようとしています。これは「キリスト教的生の新しさに貢献するため(小山晃佑、2011年、p.251)」にとても重要なことなのだと思います。わたしたちはそれぞれの場にあって、言葉では言い尽くせない神様からの賜物を表すために、遣わされているのです。
コメント