ヨハネによる福音書 4章43~54節 桝田翔希牧師
コロナ下であった変化の一つに、カルト宗教の活発化というものがありました。ここ最近、キリスト教の中でもカルト宗教に対する注意喚起というものもありました。カルト宗教をイメージした時、高い壺を買わされるということがあるように思いますが、不安を取り除くためにそのような決断を迫られるということのようです。カルト宗教に関する冊子に「これをすれば安心です、という方法はない!と心得ていてください(カルト問題キリスト教連絡会編『カルトって知ってますか?』2022年、p.7)」という文言があったのですが、私たちは元から様々な不安や恐怖を抱えて生きている存在なのだということを思わされました。
ヨハネによる福音書にある役人の子どもが癒されるという物語は、他の福音書にも類似した物語が書かれています。しかしヨハネによる福音書では、他の福音書とは違った視点で書かれており、ここで病を治す原因は信仰ではなくただただイエスの力ということになっています。他の箇所では、イエスに向き合う人の信仰が重要視されることもありますが、イエスによって信仰がもたらされるとする構図が、この箇所の特徴となっています。福音書ではイエスの治癒奇跡が何度も書かれています。私たちも実際にそのような業にあやかりたいと思う時もあります。しかしこれらの描写は「宗教的プロパガンダ(宣伝)の競い合いの中で段々エスカレートして偉大な奇跡の話になっていったという傾向(山口里子『新しい聖書の学び』2019年、p.129)」ということも考えられます。奇跡をあまり直接見ることのない私たちは、奇跡物語をそのまま読むというよりは、何か違った視点でとらえる必要があるのかもしれません。
神学者のジェイムス・コーンは『十字架とリンチの木』という本の中で「米国における黒人のリンチと2000年前のイエスの十字架との類似性を指摘(榎本空『それで君の声はどこにあるんだ?-黒人神学から学んだこと』2022年、p.76)」しました。この作業は現実の問題をイエスの物語を通して向き合うということです。榎本空さんは著書でこの書籍に関連して、「霊的な目」ということを書いておられました。「ここで霊的な目とは、超人的な透視力ではなく、人の未来を占うことでもなく、人間の不当な苦しみを無視することのできない、過敏な目のことを言う(榎本空、2022年、p.77)」。私たちは信じることで治癒奇跡を願う時もありながら、不安がなくなるということはありません。しかし、「過敏な目」でもってされた交わりの中に、イエスの治癒奇跡の原型があったのではないでしょうか。治癒奇跡はそういった意味で、私たちの日常に触れる物語なのです。
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