ヨハネによる福音書 3章1~15節 桝田翔希牧師
「福音と世界」という雑誌の6月号に、昨年の12月にパレスチナのベツレヘムにある教会でされた、「瓦礫の中のイエス」というタイトルでされたクリスマスの説教が掲載されていました。そこでは「もしイエスが今日生まれるとしたら、ガザの瓦礫の下で生まれることでしょう。(…中略…)私たちの世界が力と武器に頼る中、イエスは瓦礫の下にいます。(「福音と世界」2024年6月号、ムンター・イサーク“パレスチナからの説教 瓦礫の中のイエス 哀悼の祈り”p.39)」パレスチナの惨状は今も続き、殺戮が起こっています。私たちが過ごしたクリスマスとの違いを改めて感じさせられました。イエスが語ったことの中には、いくつかのテーマを見出すことができますが、その一つに「神の国(神の統治)」というものがあります。神の国とはどのようなものなのか、人間がすぐわかることはできません。しかし、神の国や主の祈りで祈るような「天」と真逆の場所はすぐに見つけることができると思います。「〈帝国〉の暴力の犠牲者(同上、p.39)」が出るような、戦争/殺戮の場所は神の国ではないということは確かだと思います。
ファリサイ派のニコデモはイエスに好意を持っていましたが、イエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。(3節)」と語ったことの内容がよくわかりませんでした。現代において、洗礼には「新しく生きる」という意味がありますが、ニコデモが生きた時代では一般的な考えではありませんでした。新しく生きるとき(洗礼のとき)、私たちは神の国(神の統治・新しい世界)の一部を見ることができる、そのようなことをイエスの言葉から知ることができます。
新約聖書の中には、初期キリスト教会で洗礼のときに用いられていたと考えられる「洗礼定式」と呼ばれる文章があります。そこには「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。(ガラテヤ3:28)」ということが書かれています。ここには初期キリスト教会がイエスの活動を引き継いで「イエス・キリストによって啓示された神を信じることにおいて、民族・身分・性の違いを超えた共同体を作ろうとする(山口里子『新しい聖書の学び』2009年、p.149)」意思を読み取ることができます。私たちはイエスの生き方を引き継いで、少しずつ神の国を知ろうとする存在です。神の国とは詳しくは人間にはわからないことですが、少なくとも戦争によって日常の生活が脅かされ、武器によって殺戮が起こり住む場所が奪われるということとは真逆の場所であると思います。イエスの働きは今のこの世にも続いています。神の国が実現するために続いており、私たちもそのことに少しでもかかわるものでありたいと思います。瓦礫の中にイエスがおられるということを覚えながら。
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