ヨハネによる福音書 4章5~26節 桝田翔希牧師
日本では蛇口をひねれば安全な水が出てくることは多くの場合で当たり前ですが、世界的に見れば人口の内20%が不衛生な水やそもそもの水不足の中で生活しています。学生時代に訪れたネパールでも、簡易的な水道はありましたが、染み出た水をためるような水場(井戸)もありました。乾期などで水がなくなったり、虫が湧いたりするということがあったと聞きますが、水は大切なものという意識は強く感じました。不衛生な水による下痢は深刻な病で、脱水症状で命を落とすということも珍しくありません。ネパールでは「ジーブンジャル(命の水)」という経口補水液のもとが売られていました。私たちは日本に暮らしていて、水ぐらい当たり前にあるものと思っていないでしょうか。
ファリサイ派に追われることになったイエスは、ガリラヤに逃げるためにサマリア人の村を通過しました。当時、イスラエル人とサマリア人には軋轢があり、サマリアの村を通るルートは普通使われなかったようですが、それほどに急いでイエスの一行が逃げているということがわかります。そのような中、イエスは疲れ果てのどの渇きの中で、とある井戸のほとりに座り込みました。光り輝く威厳のある姿ではなかったのです。ここでイエスは実際に渇きをいやす水ということから、「命の水」という霊的なことを語り始めます。これまでの箇所で洗礼に関連して水という言葉がよく登場していますが、霊的なイメージとしての「水」がよく語られています。しかし、イエスが求めたのは霊的な水だけではなく、渇きをいやす水もありました。
キング牧師は暗殺される前の日の説教で、「『天国でまとう白くて長い服』にあれこれ象徴的な意味を付して、いろいろな話をするのもいいだろう。しかし究極的には人はこの地上で服やドレスや靴が欲しいのだ。『乳と蜜の流れる街路』の話をするのもいいだろう。しかし神は地上のスラムに、そして三度の食事を満足に食べられない神の子に目を向けるよう、私たちに命令しているのだ(梶原寿監修『私には夢がある M. L. キング説教・講演集』2008年、p.237)」と語りました。私たちは豊かと言われる日本で、不自由なく水を使います。しかし、水は命をつなぐために極めて重要です。イエスの生きた時代の水事情は深刻なものがあったとも考えられます。そのような、水の不足で命が奪われかねない現状の中でみ言葉が語らたのであり、霊的なことだけではなかったのです。教会が語る言葉は霊的なことだけではなく、生活すべてを包んでいるのです。
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