ヨハネによる福音書 16章25~33節 桝田翔希牧師
急速にコロナ前の生活が一部では戻りつつあり、対面の行事も増えてきました。しかし、オンラインの活用など、以前の生活とは変わった部分も多くあります。ここ最近のIT技術の発展はすさまじいということを感じます。また同時に、価値観の多様化も同じように急速に進んでいます。「価値の変化が速いこと、そうした状況の中で宣教における教会の戸惑いと不安が大きい(橋本滋男『福音書からイエスへ』2006年、p.160)」、そのような時代を私たちは生きているのかもしれません。キリスト教は神という絶対的な価値観を持つ宗教であると言えるかもしれませんが、相対的なものとも言えます。キリスト教(教会)と、世の中にある様々な価値観は「相互補完」の関係でもあるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書の16章は決別説教と呼ばれる部分の締めくくりにあたる箇所です。決別説教の大きなテーマとしては、地上に残される弟子たち(人間)の不安を取り除くということがあります。なぜ不安を取り除くことができるのか、その根拠としてこの前の部分で「イエスの名によって願う」ということが書かれています。「御名によって」という表現は直訳すると、「わたしの名の中で(本田哲郎『聖書を発見する』2010年、p.260)」という言い方であり「イエスと一体になる」ということです。私たちはどのようなイエスにつながっているとイメージすれば不安を除くことができるのでしょうか。
絶対的なイメージをイエスに重ねれば不安を取り除くことも可能でしょう。しかし、それは簡単なことではありません。旧約聖書には国が攻められ離散(ディアスポラ)し、ばらばらになるという歴史を記憶しています。人々はバラバラにされ、様々な経験の中で祈っていたのです。私たちもディアスポラされたような、ばらばらの経験をし、世の中には「抵抗」が必要なことも多くあります。様々な文化の中で私たち自身も「自ら利用できるコンテクストに移植(黒木雅子他『混在するめぐみ』2004年、p.27)」する、そのような相対的なキリスト教の中を歩んでいるのです。
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