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2024年5月26日説教要旨「三位一体なる神」

masuda4422020

ヨハネによる福音書 14章8~17節 桝田翔希牧師


兵庫教区総会が無事に終了しました。この一年間で兵庫教区の中で「互助制度」は大きなテーマでありましたが、教区総会でもこのことが話し合われました。共に生きる者として、支えあう意識を変えないこのまま互助制度は立ち行かなくなることが予想されます。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(マルコによる福音書10:25)」という聖句があります。この聖句は「禁欲や清貧」がすすめられていると解釈しそうになりますが、「信じることは、選択する勇気と決断(「説教者のための聖書講解」1980年、原野和雄p.26)」という中で、「何と結びつき、何を切るかという選択の厳しさ(同上)」を語っているとも考えられます。私たちは何とつながり、何と決別しようとしているのでしょうか。

今回の聖書箇所はヨハネによる福音書の決別説教で、三位一体のモチーフを読み取ることができる部分となっています。弟子はイエスと神が同一の存在であるということを説かれながら、理解することはできませんでした。とはいえ、三位一体ということは難しい思想なので無理もないかもしれません。この箇所では「知る」や「わかる」という言葉について、「oida」や「ginóskó」という異なるギリシャ語が充てられています。「oida」は客観的な知識として知るという意味があり、「ginóskó」は「生き方に現れるような理解の仕方」というニュアンスがあります。イエスが弟子に求めたのは、生き方が変わるという意味で理解するということでした。

哲学者の林竹二は公害闘争の先駆者である田中正造を見て「知るということは自分が変わること(犬養光博『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』2018年、p.23)」と説きました。「自分が変わらないで、学んだとか知ったとか言えない(同上)」ということです。情報社会の中で、私たちは知識を得ることに慣れすぎて、生き方が変わるという感覚はあまりないようにも思います。しかし聖書を理解することは「ginóskó」であり、新たなつながりの中で生き方を変えられていくということなのではないでしょうか。

 
 
 

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