ヨハネによる福音書 7章32~39節 桝田翔希牧師
特効薬が開発されたわけでもなく、今でもコロナの流行は続いていることも報道されています。コロナ下は終わったような意識になりそうですが、実情としては忘れられているだけのような気もします。コロナによって引き起こされた「わざわい」に私たちはしっかりと向き合えているのだろうかと思います。コロナ下が始まった2020年の自殺者数は、統計上でその前と比べて912人の増加で、この数は年々増え2023年でようやく前年比から63人の減少となりました。また「新型コロナウイルスは、人間を平等にするのではなく、不平等をより拡大していく災厄にほかならない(『縁食論‐孤食と共食のあいだ』2020年、p.173)」ということも考えられます。よく報道されたことの後の状況や、忘れ去られていくようなことがあるということも、コロナという「わざわい」には含まれているということを想像することは大切だと思います。
ヨハネによる福音書7章では、イエスを逮捕しようと神殿で働く「下役(神殿警備員)」がやってきます。ここでイエスは「①今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。(33節)」と「②あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。(34節)」ということを語ります。このことを聞いた神殿警備員は②にだけ反応し、イエスが昇天するということではなく、外国に住むユダヤ人のところに行くというように勘違いをします。エルサレムという宗教と文化の中心地でイエスの考えはそぐわないが、外国に住むユダヤ人には受け入れられるのではないかという安易な発想があるようにも考えられます。
コロナに関するコメントの中に「仕事を選ばず働けばいい。(中略)もっと自分でできることを探したら?(『縁食論‐孤食と共食のあいだ』2020年、p.170)」というものがあったのだそうです。転職や引っ越しはとてつもないエネルギーが必要であり、仕事が選べないという状況があることも少し想像すればわかります。コロナ下にあって、多くの人がそれぞれのしんどさを経験しつつ、その余裕のなさの中で他者への想像力を奪われたということも「わざわい」の一つかもしれません。その中に、神殿警備員がした勘違いをする姿と重なる部分があるのではないでしょうか。イエスがさらされた批判の一つはそのような想像力を除いた考えであったのです。
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