ヨハネによる福音書 20章19~31節 桝田翔希牧師
日本基督教団には、教団の信仰告白や教憲教規というものがあり、「教会は主キリストの体」と告白されたり、「主の体たる公同教会」という言葉があります。教会をイエスの体と表現することは聖書でも繰り返し行われていますが、この言葉を聞いたときどのような体をイメージするでしょうか。優しい表情をしたイエスの力強い体に連なっているような、そんなイメージを持つものではないでしょうか。私たちは体に関するイメージを漠然とすると一般的(多数派的な思考)なイメージの中でしてしまいます。聖書に登場する人物も特に説明がなければ、私は健康で障がいのない人物をイメージしていたことに気づきました。しかし、祝福をもらおうと連れてこられた子どもたちは、餓死や疫病が今よりもっと多かった聖書の時代にあって、「短い生命が終わる前にせめて祝福を与えていただきたい(山口里子『新しい聖書の学び』2019年、p.127)」という願いがあったのではないかとも思います。イエスの体とはどのような姿なのか。復活節を私たちは過ごしています。
復活のイエスは弟子たちの前に姿を現し、この個所では2度にわたってそのことが書かれ、「手とわき腹とをお見せになった。(20節)」とあります。どんな奇跡も起こすことができる神であれば、傷跡を直して復活させることもできたでしょう。しかし、そうではなく痛々しい傷跡はそのままでイエスの復活が起こったのです。傷があるというネガティブなことの意味を反転(転換)させ肯定的なことなっているのです。弟子たちがイエスを信じた時、イエスの体には生々しい傷跡がありました。
傷のあるイエスということを初期キリスト教は大切に語り継いだことでしょう。このことは苦しみや社会の中で弱くされるということを「究極的に転倒する神の栄光を見出し(栗林輝夫『荊冠の神学』1992年、p.95)」ていく作業でもありました。そして「自分以外の集団によって負の符号を付与されていたものを、逆手にとって、それを自分たちの意味付けによって、誇りの記号へと変え(同上、p.91)」るということであり、私たちがこの社会の中で与えられる烙印を跳ね返しながら、この社会の中にある烙印やその痛みと共にいようとすることが証しされているのです。教会やキリスト教はイエスの体であるのです。その体にはくぎの跡があり、荊の冠の傷跡があるのです。一部に傷があるのではないのです。この体に私たちは連なっているのです。
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