ヨハネによる福音書 15章18~27節 桝田翔希牧師
教会の活動は、政教分離と言われる日本にありながら、様々な世俗的な影響もうけています。宗教活動は非課税ということがあり、優遇されながら社会と切り離された場所に存在するようにも感じられますが、この世の法律を全く無視して活動できるわけではありません。むしろこの世のことと積極的に向き合うということが求められているようにも思います。
ヨハネによる福音書の15章では「イエスはまことのぶどうの木」という物語があり、ここにはキリスト者が愛の内にキリストとつながっているということが、ブドウの木になぞらえて語られています。その後の個所が今回のテキストになっています。今回の個所は、「愛のつながり」とは対照的で、「(この世と神の世の)対立」が書かれています。「この世」という単語はヨハネによる福音書のほかの個所でも用いられる言葉ですが、「敵対」というイメージを重ねて使われることが多い単語です。ヨハネによる福音書を書いた共同体の中には、教会とこの世の分断という課題が大きくあったのだと思います。そのような状況にあって、この箇所の結びは「証しをする(27節)」としています。
「この世」と「教会」の関係を考えた時、相容れないものを感じながら、時には悪影響を受けている場合もあります。キリスト教の言説の中で、「ポストコロニアル」という言葉が頻繁に使われています。これは植民地主義的・帝国主義的な思想を批判する考えですが、キリスト教の中にはそのような考えが多く含まれているということです。この世から全く関係ないのがキリスト教ではなく、「文化的・歴史的真空のなかで経験を解釈するのではなく、『神学的知識が社会とは切り離せない』(黒木雅子他『混在するめぐみ ポストコロニアル時代の宗教とフェミニズム』2004年、p.109)」のです。この世と教会の対比を見ることは、教義の純粋性ということを探すのではなく、「自分たちの人間性の主張を力づける生命の力(同上、p.117)」を探すこと、そのことを語ることが聖書を通して証しをするということなのではないでしょうか。
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